みなさん、こんにちは。編集部員のくろやなぎです。本日は、連作記事『ゲームブックにおける死と物語』の第2回をお届けします。
第1回(2025/11/18、No.4682)では、「死」に関連するギミックをもつ作品として、主人公が「輪廻」の中で死を繰り返すゲームブック『護国記』(著:波刀風賢治、2018年、幻想迷宮書店刊)をご紹介しました。
今回は、「時の魔法」の使い手を主人公とするゲームブック『狂える魔女のゴルジュ』(著:杉本=ヨハネ、2023年、FT書房刊)と、前回ご紹介した『護国記』との対比を通じて、ゲームブックにおける死と物語について考えていきたいと思います。
なお、記事の中では、両作品の構造や物語の展開のほか、『狂える魔女のゴルジュ』のリプレイ(著:ぜろ、2025年、FT新聞掲載)におけるオリジナル要素や、ローグライクハーフd66シナリオ『ベテルギウスの残光』(著:紫隠ねこ、原案・協力:ロア・スペイダー、監修:杉本=ヨハネ、2025年、FT新聞掲載)の内容についても言及していますので、未読の方はご注意ください。
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ゲームブックにおける死と物語
第2回:『狂える魔女のゴルジュ』における「時の魔法」と死
(くろやなぎ)
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■「時の魔法」による死の回避
『狂える魔女のゴルジュ』(以下、『ゴルジュ』と略記します)の主人公ミナは、作品中の現在においては、アランツァ世界で唯一の「時の魔法使い」です。
物語の最初に置かれた「背景」の章で、ミナは奴隷商人に奪われた姉たちを取り戻すため、からくり都市チャマイの魔法学校から7つの魔法の時計を盗み出し、姉たちの消息を追って「還らずの森」へと足を踏み入れます。魔法の時計の力を使うための前提条件は、闇と時を司る「闇神オスクリード」の信者となることであり、ミナは時計を手にしたときに、白い肌のエルフから、闇神を信仰する闇エルフへとその姿を変えています。
『ゴルジュ』は、「どれほど罪を重ねても、愛を裏切らない」と誓った主人公が、闇神から得た力で魔法の時計を操り、2人の姉を「還らずの森」の吸血鬼から取り戻そうとする物語です。
時の魔法について、『ゴルジュ』の「あとがき」では、大きく分けて「現在に局地的な影響を与えるもの」と「世界に影響を与えるもの」の2種類があるとされています。
「現在に局地的な影響を与える」魔法には、自分自身の速さを2倍にする〈速撃の戦時計〉の魔法や、対象1人の身体の時間を戻し、身体に受けた悪い効果から回復させる〈時もどしの回復時計〉の魔法などがあります。
もう一方の「世界に影響を与える」魔法は、さらに「遡行」型の魔法と「跳躍」型の魔法に分けられます。『ゴルジュ』においては、「遡行」型の魔法として、前のパラグラフに戻ることができる〈枝分かれの未来時計〉の魔法、「跳躍」型の魔法として、過去にジャンプする〈跳兎の懐中時計〉の魔法が用意されています。
これらの魔法の中で、特にゲームブック的な「死」との関連性が強いのは、「遡行」型として位置づけられる〈枝分かれの未来時計〉の魔法です。
『ゴルジュ』のリプレイの中で、闇エルフの隠れ里に入ったミナが、毒の香りのために意識を失いそうになりながら、〈枝分かれの未来時計〉の力で時を遡り、無事に帰還するシーンをご記憶の方もいらっしゃるでしょう。『ゴルジュ』のゲームブックの中でも、闇エルフの隠れ里は、生きて出られる選択肢のない袋小路になっており、〈枝分かれの未来時計〉の魔法を使うための「準備」をせずに「闇エルフの里に向かう」を選んでしまった場合、その時点でミナの死(ゲームオーバー)が確定してしまいます。
ここでいう「準備」とは、もとのパラグラフが書かれているページを指で押さえるという動作のことで、『ゴルジュ』のルール説明の中では「指セーブ」とも呼ばれています。なお、書籍版でも電子版(PDF版)でも、この「準備」に関する記載は変わりません。そのため、ここでの「指」や「押さえる動作」は、文字通りの物理的なものであっても、それに代わる、読者による何らかの決めごとであっても構わないと考えてよいでしょう。
この〈枝分かれの未来時計〉の魔法は、「準備」さえすればいつでもどこでも使用できる、というわけではありません。魔法の「準備」をしても、飛んだ先のパラグラフ番号に矢印(電子版では「先が分かれた枝」のイラスト)が添えられていなければ、その準備は空振りに終わります。また、魔法の発動の際には「悪夢袋」に入った「悪夢」をひとつ消費するため、冒険の途中で「悪夢」を使い切ってしまった場合、何らかの手段で悪夢を補充し直さない限り、魔法を使うことはできなくなります。
このように制約も多い〈枝分かれの未来時計〉の魔法ですが、「指セーブ」を使って死の袋小路から脱出し、しかもそこで得た情報を冒険の中で活用できる、というギミックは、ゲームブックの読者にとってはある意味夢のような仕掛けだといえるでしょう(〈枝分かれの未来時計〉による遡行の結果として、遡行の前に手に入れた装備品などは「なかったこと」になりますが、経験したできごとに関する記憶や感情は残るというルールになっています)。
もっとも、ゲームのルールとしてはともかく、物語の設定上は、このような「時の魔法」の行使は「悪」として位置づけられることになります。『ゴルジュ』の舞台であるアランツァ世界は、「人が時とともに死ぬことが決まっている」世界です。そこで一種の「不死」をもたらしうる時の魔法は、万人に平等なはずの「時」というものを、選ばれた者だけが恣意的に操作するという所業であり、作者からは自然の摂理に反する「悪夢のようなもの」として位置づけられているのです[『ゴルジュ』の「あとがき」より]。
前回の記事でご紹介した『護国記』における「輪廻」の力も、物語の中で、「後悔を残した者を時間の檻に閉じ込める」という、決して「善いもの」とは言えないような意味を与えられていました。「善いもの」ではないが、しかしそれでも主人公が目的を果たすためには必要な、ある種の「不死」をもたらすギミックとして、『ゴルジュ』における「時の魔法」は、『護国記』における「輪廻」に似た性格をもっているように思います。
この「輪廻」について、前回は主に、読者と主人公との関係性というメタ的な視点から見てみました。以下では、『護国記』の物語の内部における「輪廻」のあり方を改めて整理し、それを『ゴルジュ』の時の魔法のあり方と対比させることによって、これらふたつの物語をめぐる、ある種の対照的な構造を描き出すことを試みます。
■『護国記』の「輪廻」における蘇生と遡行
まず、『護国記』の主人公ライゼが初めて「輪廻」を経験した直後の場面を、少し詳しく見てみましょう。
王城の中の、見慣れた職場である史料編纂室で目を覚ましたライゼは、自分の左手に起きた異変(「残穢石」との同化)を認識するとともに、自分が「死ぬ」直前に、その「残穢石」に触れていたことを思い出します。そこでは、「自分は……死んだ!/死んだはずだった。/そして僕は蘇ったのだ。」というモノローグが展開されます(/は原文では改行)。
そしてライゼは、自分がいる史料編纂室や、そこから見える王城の中庭の様子が、「僕が死んだ日の朝の状態」であることに気付き、そこに「これって……時間が巻き戻ったのか? 生き返っただけではなく?」というモノローグが続きます。
このライゼの言葉どおり、『護国記』における「輪廻」は、「死んで生き返るとともに、時間が巻き戻る」という形、言い換えれば「蘇生」と「遡行」がセットになった形で起こります。また、その後の物語の中では、残穢石が「輪廻」を引き起こすために、「刻の力」(時間を操り、支配する力)の作用が必要だということも明らかにされます。そして、「蘇生」に「遡行」が附随することについて、ライゼがわざわざ驚くことはなくなります。
しかし、ファンタジー世界全般の約束事として、「蘇生」が必ずしも「遡行」を伴うわけではありません。蘇生という事象は、あえて時間を遡ることなく、対象者(死者)がいるその時間・その場所において、ただ「死んでいる状態」が「生きている状態」に変化する、という形で起きても構わないはずです(それが、その世界における「蘇生」のあり方ならば)。
蘇生と遡行のセットとしての「輪廻」は、『護国記』の物語全体を通じて、幾度も幾度も繰り返されます。そのため、『護国記』の読者は、蘇生と遡行が不可分なひとつの事象であるかのような心持ちになることがあるかもしれません。その一方で、はじめて「輪廻」を経験したときの、主人公ライゼの「生き返っただけではなく?」という驚きは、蘇生と遡行を別々の事象として切り分けうるということを、私たちに思い出させてくれます。
『護国記』における主人公の「輪廻」は、この作品のシステムや物語に対して最適化された、ファンタジー世界における「蘇生」や「遡行」のあり方のバリエーションのひとつとして位置づけることができるでしょう。
なお、『護国記』における主人公の「輪廻」では、蘇生が必ず遡行を伴うのと同様に、遡行も蘇生(の前提となる死)を必要とします。
物語の展開によっては、ライゼは不死者の眷属に取り込まれることによって、「輪廻」の及ばない物語の終わり、すなわちゲームオーバー(「あとがき」に続かないEND)を迎えてしまいます。ライゼが残穢石の力で「輪廻」してやり直すためには、その契機としての死が必要なので、不死者となることで死ねなくなったライゼは、もはや「輪廻」をすることができないのです。
このような『護国記』における「輪廻」の構造を踏まえた上で、つぎに『ゴルジュ』における「時の魔法」と死との関係性を整理してみたいと思います。
■『狂える魔女のゴルジュ』における「時の魔法」と死
『ゴルジュ』における「遡行」の手段である〈枝分かれの未来時計〉の魔法は、「悪夢」というリソースを必要としますが、「死」という契機を必要としません。むしろ、〈枝分かれの未来時計〉の魔法を含む「時の魔法」全般が、「蘇生」という事象とは、どうも相性が良くないようなのです。
まず、〈時もどしの回復時計〉や〈うたかたの齢時計〉の魔法の効果が及ぶのは、「生きている対象1人」であると明記されています。そのため、〈時もどしの回復時計〉を使っても、対象から「死」という「悪い効果」を取り除くことはできませんし、〈うたかたの齢時計〉を使っても、死者を「生きていたときの年齢の姿」に戻せるわけではありません。また、〈枝分かれの未来時計〉の魔法の効果には、「体力点が0点以下になった場合には、冒険がそこで終わってしまう」と明記されています。
この「体力点」に関するゲームブック内での説明はとても簡素で、「あなたの体力点は4点です。これは体力点の最大値でもあります。これが0点以下になるとゲームオーバーで、あなたは冒険に敗北します」と書かれているだけなので、必ずしも「体力点が0点以下」が「死」を意味すると決めつけることはできません。ただ、これらの記述から、冒険の途中で体力が尽きて死んでしまった主人公には〈枝分かれの未来時計〉の魔法の効果は及ばない、と解釈するのは、さほど不自然ではないように思います。
たしかに、〈枝分かれの未来時計〉が使用可能な(矢印や枝のイラストが添えられている)パラグラフには、飛び先のない、ゲームオーバーになるパラグラフがいくつか含まれています。では、これらのパラグラフでは、死からの蘇生を伴う遡行も可能なのかというと、どうもそうとは限らないようです。
あるパラグラフは、最後が「その先に訪れる死」を暗示する記述で終わっており、確かにゲームとしては「ゲームオーバー」なのですが、その時点では、ミナはまだ完全には死んでいません。そのようなパラグラフからの遡行は、「ゲームオーバー」のキャンセルではあっても、完全な「死」からの蘇生とは言えないでしょう。
また、ある別のパラグラフは、たしかにミナが「息を引き取る」記述で終わっています。そのパラグラフの最初の方には、ミナが魔法の時計の使用に失敗する描写があるのですが、そこには「あらかじめ準備していた魔法以外は、役に立たないのだ」と書かれています。これはつまり、その前のパラグラフで〈枝分かれの未来時計〉の「準備」をしていたミナであれば、そのタイミングで、その後の記述を無視して魔法を発動させ、死の場面を回避して前のパラグラフへ遡行できるということを意味しています。
つまり〈枝分かれの未来時計〉は、死なない程度の(体力点が1点以上残る状態での)ダメージは「なかったこと」にできますし、「この先はどうやっても死んでしまう」という絶体絶命の状況からも生還させてくれるのですが、完全に「死んでしまった」人間を蘇生したり遡行させることは、できないように見えるのです。
また、物語の展開によっては、〈枝分かれの未来時計〉は、隠された8番目の魔法の時計とも言うべき〈沙羅双樹の予知時計〉へと変化します。
その魔法の効果は、「指でセーブした箇所から、次にあるすべての選択肢の内容を確認して、戻ってくることができる」という非常に強力なもので、しかも〈枝分かれの未来時計〉にはなかった、「その番号で君が死んでいても戻ってくることができる」という注釈が追加されています。
ただし、〈沙羅双樹の予知時計〉の能力は、その名称が示すとおり「予知」に他なりません。「次のパラグラフを見て、元のパラグラフに戻り、別のパラグラフを選び直す」という読者の行為だけを見れば、それは〈枝分かれの未来時計〉とよく似ていますが、〈枝分かれの未来時計〉の魔法は、実際に起きたできごとの枝分かれの中を遡行することによって、「世界に影響を与える」魔法です。これに対して、〈沙羅双樹の予知時計〉は、あくまで「次に起こる(まだ起こっていない)未来」を予知するものなので、予知した未来の中でミナが死んでいても、ミナが「実際に死んだ」ことを意味するわけではありません。
〈沙羅双樹の予知時計〉の魔法は、いわば「世界に影響を与えない」遡行型という、いささか特殊な時の魔法なのだと言えるかもしれません。
このように、「予知」の場合に限って「死」の例外性が解除されるというルールは、「現前する死」には対処できないという、『ゴルジュ』における時の魔法の原則を補強するもののように思われます。
なお、「不死者」に対しては、通常の生者のときと同様に、時の魔法は効果を及ぼすようです。
吸血鬼を含む不死者は、アランツァ世界では「死んだはずの生きものの時を止めて、ずっとそこにある」存在とされています[『ゴルジュ』の「あとがき」より]。それでも、〈時もどしの回復時計〉の魔法は、吸血鬼となったエナ(ミナの姉たちのひとり)を、「忌まわしき不死者から、1人のエルフに」戻すことに成功します。また、〈うたかたの齢時計〉の魔法は、森の中で襲ってきた吸血獣を、「吸血化する前の状態」であるコウモリに戻すことができます。
『護国記』における「輪廻」は、「刻の力」によって遡行を引き起こしますが、その発動には死を必要とし、対象の不死化によって無効化されます。
一方、『ゴルジュ』における「時の魔法」は、不死者には効果を発揮しますが、死者に対しては、直接的には有効ではないようです。
ただし、時の魔法は、間接的には「死」に影響を及ぼすことも可能です。すなわち、現在の死者について、〈跳兎の懐中時計〉で過去へ跳躍し、その死の原因を取り除くような行動を取った場合、その人物の死は「なかったこと」になります。そのようにして、主人公ミナは、姉のひとりであるティナを取り戻し、吸血鬼の館に住む少年ビバイアの命を救うことができます(『ゴルジュ』のリプレイでは、これらの場面が、そばにいる仲間の反応を含めて鮮明に描かれています)。
時の魔法は、「遡行」によって袋小路から抜け出ることで、その先で起きたはずの死を回避し、「跳躍」によって過去を変えることで、ある者が「死んでいた」現在を「生きている」現在に変えます。
それでも、これらのできごとは、死者の「蘇生」と同じではありません。時の魔法は、『ゴルジュ』というゲームブックの枠組みの中では、やはり現前する「死」そのものを直接的に覆すことはできないように見えるのです。
■『狂える魔女のゴルジュ』のリプレイにおける「神の戯れ」
このように『ゴルジュ』の時の魔法の性質を整理したとき、『ゴルジュ』のリプレイで加えられたオリジナルの要素は、洞察を深めるひとつの契機となるように思います。
リプレイの中で、ミナは吸血鬼の館の地下室で殺され、渓谷の濁流に呑まれて死に、そのたびに「神の戯れ」による蘇生と遡行を経験します。
ミナをまるで「輪廻」のように蘇生させ、遡行させたのは、闇神オスクリード。ミナは、死の闇の中で、「稀有なる力の使い手よ。いましばし、我を楽しませよ」というオスクリードの声を聞きます。そしてミナは、闇神が「世界で唯一の時の魔法の使い手」であるミナを観察し、ミナが死ぬたびに時間を巻き戻しているのだと理解します。
それは明らかに、ミナに使用可能な「時の魔法」の制約を超越したできごとですが、ミナはそれを「神にしかできないみわざ」「闇の神の戯れ」として受け止めます。
この「神の戯れ」は、「プレイヤーが再アタックすること」を表現したものだとされています[リプレイの「番外編」より]。すなわち、リプレイの創作過程におけるメタ的な状況を、物語の内部に落とし込んだものだと言い換えてもよいでしょう。そしてまた、ゲームブックやリプレイという形式においては、そもそも「物語そのものの要素」とメタ的な仕掛けとの境界線が、常にどこか曖昧になりがちなようにも思います。
『護国記』の「輪廻」や、『ゴルジュ』における遡行の魔法は、ゲームブックの読者(プレイヤー)の「やり直し」や「指セーブ」という行為を想起させるメタ的な仕掛けであると同時に、物語の要素としても確固たる居場所と意味をもって存在しています。
同じように、この「神の戯れ」も、プレイヤーの「やり直し」の再現というメタ的な由来をもつ一方で、リプレイの物語の内部においても、主人公ミナの感情を激しく揺さぶる効果をもちます。それは、ミナを追い詰め、辺縁の村での悲痛な叫びを引き出すことで、ボラミーの態度を変え、リプレイの物語を大きく動かすことになるのです。
ゲームブックの物語が、このようにリプレイという形で創造的に再演されるとき、そこではまた、元となるゲームブックの物語に対しても、新たな解釈の可能性が開かれるように思います。
リプレイにおける闇神オスクリードの戯れが、もし「遡行」と「蘇生」が密接に関連する『護国記』の世界のできごとであれば、それは自然な成り行きとして、物語の中に溶けていくでしょう。
一方、『ゴルジュ』の舞台であるアランツァ世界のできごととして見るとき、この「蘇生」を伴う「戯れ」は、ある違和感を伴って、『ゴルジュ』のゲームブックにひとことだけ記された設定を思い起こさせます。
『ゴルジュ』の本編が始まる前の「背景」には、からくり都市チャマイの描写として、以下のような記述があります。
「15柱の神には、それぞれ特性がある。その1柱、闇神オスクリードが、街に影を落としていた。闇をもたらす時の神。死の神ベルドゥーの兄弟であり、闇と時を司る。」
アランツァ世界において、「時」を司るのはオスクリードですが、「死」の神はオスクリードではなく、その「兄弟」とされるベルドゥーなのです。
『護国記』における「刻の力」の根源は「竜」(翼竜)であり、竜は「記憶を留めたまま復活」し、「永遠の刻を生き続ける」存在だとされています。時間の支配者たる「竜」と対置される存在は、空間の支配者としての「龍」(魔龍)であり、それらと別に「死」そのものを単独で司るような超越的存在が、物語の前面に出てくることはありません。
『護国記』の「輪廻」においては、死からの蘇生と時間の遡行が一体化して起こります。これは、『護国記』の物語が、超越的存在の支配する領分を「時間/空間」という形で切り分けた上で、「死」を司る力をそれらの領分に内包させるような構造になっていることとも、深く関係しているように思われます。
これに対して、『ゴルジュ』の舞台であるアランツァ世界には、時を司る神とは別に、死の神が存在します。そのため、時の魔法による蘇生を可能にすることは、時の魔法の力の根源たる闇神オスクリードの領分からはみ出て、死の神の領分にまで大きく足を踏み入れることを意味します。
『ゴルジュ』における「時の魔法」が、「死」への直接的干渉を避けるような仕様になっていることは、アランツァ世界における神々の領分のあり方とも関係していると、そのように解釈してみるのも面白いでしょう。
『ゴルジュ』の「背景」の描写において、ミナが魔法の時計を手に取ったとき、闇神オスクリードとおぼしき「何者かの声」がミナの心の中に響きます。その声はミナに、時計の力を使いこなしたいなら、オスクリードの信者になるのだと伝え、ミナはそれに応じて闇エルフへと変貌を遂げます。そして物語の本編が始まった後は、闇神が自らの声や姿や、自我のようなものを示す機会はなく、ゲームブックの読者やミナからは、その内面を窺い知ることはできません。
しかし、リプレイの中で、時の魔法とその使い手に対する闇神の「興味」が明確に描写されるとき、そこには同時に、つぎのような問いが立ち上がってくるように思います。
時を司る神が時の魔法に興味を示すのであれば、時の魔法が行使された結果として、間接的にではあっても「死」が覆されていくことに対して、死の神はいったい何を思うのでしょうか。そして死の神は、自らの兄弟たる闇神の「戯れ」が、時の魔法の使い手を「蘇生」させ、自らの領分により深く踏み込んでくることを、どこまで許容するのでしょうか。あるいは、死の神もまた、闇神の「戯れ」に加担することがありうるのでしょうか。
時の神と死の神が「兄弟」であるという設定は、『ゴルジュ』の物語にとって、とりわけ意義深いもののように感じます。
『ゴルジュ』の物語の駆動力となっているのは、離れ離れになったきょうだいに対する愛や執着です。主人公ミナは、奪われた姉たちを取り戻すために時の魔法使いとなり、剣士ボラミーは、置き去りにした弟ビバイアを救うための薬を探し求めます。エルフや人間のきょうだいは、このように物語の中で互いを愛し、救おうとしますが、それでは「神」の兄弟についてはどうでしょうか。
『ゴルジュ』の中では、死の神ベルドゥーは名前が登場するのみですが、同じくアランツァ世界を舞台とするローグライクハーフのシナリオ『ベテルギウスの残光』の中では、ベルドゥーを信仰する教団の姿が描かれました。そこでは、ベルドゥー教団は「死」を神聖なものとして扱うため、「死」を捻じ曲げて不死者(アンデッド)を使役するオスクリード教団とは、「宿敵」といってよい関係にあるとされています。
とはいえ、このような信者たちの教義や教団同士の対立は、必ずしも、信仰される神そのものの関係性と同じであるとは限りません。また、『ゴルジュ』における時の魔法は、たしかに死者の運命を変えた一方で、直接的な「蘇生」や「不死化」を行ったわけではなく、逆に不死者を死すべき存在へと「戻す」こともしています。そのため、ミナや時の魔法の存在が、死の神に対してただちに敵対的・冒涜的かというと、そうとも言い切れないようには思います。
それでも、時の魔法と死の神とのあいだには、控えめに言って対立の芽が潜んでいることは確かであり、オスクリードとベルドゥーという「兄弟」のあいだにも、一触即発の緊張関係を見て取ることもできるでしょう(あくまで、人の立場からの比喩的な見立てではありますが)。
『ゴルジュ』のゲームブックの中では、魔法の力の向こう側に垣間見るような遠い存在だった闇神オスクリードを、『ゴルジュ』のリプレイは、「神の戯れ」というメタ的な仕掛けを介して、物語の表舞台の側に引き寄せます(自らの思惑をもつ主体としても、主人公や読者からの洞察の対象としても)。そのとき、物語の奥底に潜んでいた死の神もまた、闇神との設定上のつながりの強さゆえに、物語の中での居場所や意味を与えられることになるのかもしれません。
ミナ/エナ・ティナ、ボラミー/ビバイアという2組のきょうだいが、時の流れの中で生と死の狭間を行き来するとき、もう1組の「兄弟」が、その様子をじっと窺っている(反目しあいながら、あるいは共に戯れながら?)…『ゴルジュ』のリプレイからは、『ゴルジュ』のゲームブックにも内在するひとつの可能性として、このような構図が浮かび上がってくるのではないでしょうか。
なお、『護国記』においては、『ゴルジュ』とは反対に、きょうだいという関係性が物語の前面に出てくることはほとんどありません。『護国記』の物語の中心に据えられているのは、生まれや育ちに由来する兄弟姉妹の愛ではなく、生まれも育ちも異なる主人公ライゼと王女ヴィルファンとのあいだの、異性愛的な関係性なのです。
これもまた、「時」と「死」をめぐる2つの物語のあいだの、興味深い対照構造のひとつだと言えるでしょう。
■おわりに
「輪廻」と「時の魔法」は、ゲームブック作品としての『護国記』と『ゴルジュ』において、どちらもゲーム上のギミックとして機能すると同時に、物語上の重要な役割を担っています。
「輪廻」においては「蘇生」と「遡行」が同時に起こる一方で、「時の魔法」における「遡行」や「跳躍」は、「死」を直接的な対象とすることはなく、それでも間接的な形で「死」を覆します。このような構造的差異は、ゲームとしての両作品の性格の違いを反映するとともに、神や竜といった超越的存在に関する設定をはじめとする、両作品の物語的な特徴にも由来しているように思われます。
もちろん、今回の記事で述べたことは、多くの可能な解釈のうちのひとつでしかありません。
私はこの記事で、「蘇生」と「遡行」の概念の切り分けに着目した解釈を展開しましたが、『ゴルジュ』のリプレイにおいて、闇神の戯れの中に蘇生と遡行が混在していることもまた、リプレイとして再演された物語の中では重要な意味と説得力をもっています。
そこで示唆されているのは、蘇生と遡行、時と死との本質的な(まるで「きょうだい」のような)関わりの深さであり、『護国記』と『ゴルジュ』は、こうした時と死との連関のあり方を、それぞれの世界観のもとで表現した作品同士なのかもしれません。
【書誌情報】
杉本=ヨハネ『狂える魔女のゴルジュ』(FT書房刊、2023年)
波刀風賢治『護国記』(幻想迷宮書店刊、2018年)[2023年9月更新版]
ぜろ『【狂える魔女のゴルジュ】ゲームブックリプレイ』(全17回、FT新聞掲載、2025/08/20〜12/10)
ぜろ『番外編【狂える魔女のゴルジュ】ゲームブックリプレイ蛇足』(FT新聞掲載、2025/12/12)
紫隠ねこ『ベテルギウスの残光』(原案・協力:ロア・スペイダー、監修:杉本=ヨハネ、FT新聞掲載、2025/12/07)
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