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2025年9月23日火曜日

『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.10 FT新聞 No.4626

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『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.10

 (田林洋一)
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 FT新聞の読者のあなた、こんにちは、田林洋一です。

 全13回を予定しております東京創元社から出版されたゲームブックの解説「SAGBがよくわかる本」、10回目の記事をお届けいたします。今回はSAGBの中でもオリジナリティ溢れる4作品を中心に検討します。

 なお、本連載はSAGBとして東京創元社版のみを検討・分析する記事とさせて頂いておりますので、後に別会社から出版された復刻版・改訂版などについては取り上げていないことを予めお断りいたします。

 本連載は「名作」と呼ばれるものを最初に集中的に扱っている関係上、連載の後半になるに従って厳しい批評が多くなりますこと、ご寛恕ください。前回、前々回に引き続き、この回でも一部の作品に厳しい評価をしておりますが、作品そのものを全否定する意図は全くないことをご理解いただければと思います。「私はそうは思わない」という感想がございましたら、ぜひともお寄せいただければ嬉しく思います。

 毎回の私事ではありますが、アマゾンにてファンタジー小説『セイバーズ・クロニクル』とそのスピンオフのゲームブック『クレージュ・サーガ』を上梓しておりますので、そちらもご覧いただければ嬉しく思います。今回はクトゥルー・ゲームブック『暗黒教団の陰謀』を取り扱っておりますが、私はクトゥルー神話関連の小説も大好きで、拙クトゥルー短篇『変化』も出版しておりますので、そちらもご覧いただければ幸甚です。なお、『クレージュ・サーガ』はこの記事の連載開始後に品切れになりました。ご購入くださった方には、この場を借りてお礼申し上げます。

『セイバーズ・クロニクル』https://x.gd/ScbC7
『クレージュ・サーガ』https://x.gd/qfsa0
『変化』https://x.gd/8N82o

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10.オリジナル・ゲームブックの隆盛 -原作とオリジナリティの狭間

主な言及作品:『バック・トゥ・ザ・フューチャー』(1985)『暗黒教団の陰謀 輝くトラペゾヘドロン』(1987)『展覧会の絵』(1987)『眠れる竜ラヴァンス』(1988)
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 1987年前後は、SAGBが原作ありきのゲームブックと、オリジナル・ゲームブックの刊行を平行して行ってきた時期と言えるだろう。例えば第9回で扱ったユニコーン・ゲームブックは海外産のオリジナリティ溢れるゲームブックで、ストーリーよりもゲーム性やマッピングを特化させて楽しむことを目的としたオリジナル・ゲームブックである。ここでは「原作物」と「オリジナリティ」という観点から、いくつかのゲームブックを眺めてみよう。

 SAGBシリーズの初期の作品群はほとんどがアーケードゲームやファミコンソフトを原作としていたが、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はスティーブン・スピルバーグが製作した有名映画をそのままゲームブックとして書き下ろしたものである。
 かなり初期の段階で執筆された『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、映画を原作に据えるという、SAGBの中では唯一の存在である。ルールは非常に簡潔で、初期設定すべき能力値は運勢値ただ一つで、それもセービングスロー(サイコロを振って、出た目の数が一定の値以下ならば成功)の際の補助として用いられるだけである(バッドエンドにならないように緊急回避的に用いられる時もある)。また、アイテムなどの類いも一切ない。全てがプレイヤーの選択とセービングスロー(ないしは運勢値)に委ねられているのだ。これは、例えば「ソーサリー」が技術点、体力点、運点の三つの能力値を設定する必要があり、かつ戦闘の際にはそれらの数値が効果的に機能することを考えると、極めて対照的である。
 もちろん、その理由は原作の映画の存在にあるだろう。主人公のマーティは高校生で、当然のことながら剣を振るったり魔法を使ったりする能力はない。また、映画は現実世界を舞台にしたSFで、ファンタジーの要素が入る隙がない。その意味で、第5回で紹介したデュマレスト・ゲームブックはファンタジー色を極力排したオリジナリティのあるゲームブックであり、かなり異彩を放っていると言えよう。『バック・トゥ・ザ・フューチャー』も作者は同じく安田均とTTGなのだが、こちらは原作の面白さを大事にして、敢えて余計な外伝を作らなかったように見受けられる。

 この「原作に忠実」という手法は(作成する側からすると)とても悩ましい問題だと思われる。というのも、原作を無視してストーリーを立て始めると、元々の原作の完成度を壊すことにも繋がりかねず、またオリジナリティ溢れる要素ばかりを詰め込むと、そもそも原作の存在は何だったのかということになってしまうからだ。かといって原作のシナリオ通りにゲームブックの選択肢を狭めてしまえば、プレイヤーはそもそも先の話を知ってしまっているし、究極的には小説や映画を楽しめばそれでよいということになる。
 つまり、原作ありきのゲームブック作成においては、原作の中身に忠実かどうかの線引きが非常に難しいのである。今までのSAGBはナムコのゲームソフトを原作にしたものが多かったが、あちらはあくまでもゲームを下敷きにしたもので、ストーリー的には変更の余地があるものが多かった。また、当時のゲームのスペックの関係で、映画や小説などと異なり、背景世界やストーリーなどをゲーム本体の中身で表現しきれなかったという事情もある(「ゼビウス」や「グラディウス」のような優れた例外はある)。つまり、当時のゲームにはシンプルなアクションゲームやシューティングゲームのように他のストーリーを介在させる余裕があったことや、遵守すべき情報量が圧倒的に少なく、作者が自由にアレンジする余地が豊穣にあったということである。

 さて、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』はストーリーそのものが原作に忠実にできているがゆえに、映画の内容を知っているとその筋書き通りに動けばクリアできてしまうという特徴がある。原作に沿ったルートを残した作品としては、例えば宮崎駿のアニメ映画「天空の城ラピュタ」をベースにしたゲームブック『天界の迷宮』(徳間書店)などがある。蛇足ではあるが、デュマレスト・ゲームブックはE・C・タブの小説を原作にしているが、ストーリーをそのまま踏襲することはせずに、その魅力を壊さないようにしながら敢えて内容は完全にオリジナルのストーリーで構成されている。
 もちろん、原作の味を残すためには「IFの世界」だけでなく「映画の中で本当に起こった出来事」のルートを残すのは必然だろうが、逆に言えば内容に変化がないために興ざめすることもあるだろう。同じ徳間書店のアニメージュ文庫から出た「風の谷のナウシカ」を基盤とした『巨神兵を倒せ!』が、原作アニメとはストーリー的に完全に独立したもの(外伝)であることを考えると、原作通りの筋書きを残すか、IFの世界を構築して進んでいくかは議論の分かれるところだろう。
 仮に「原作の筋書き」を辿ったとしても、複数の属性を表す数値や戦闘を含めた判定といった(時としてランダムとなる)要素が内包されていれば、いわゆるゲーム的なデータを俯瞰できただろう。だが、『天界の迷宮』とは違い、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』にそうした細かいパラメーターの設定は前述したようにほぼない。また、初期の作品ゆえにパラグラフ・ジャンプなどの操作もないため、読者は忠実に、そして地道にマーティの行動を追ってストーリーを楽しむことができる。

 もちろん、原作のストーリーに逆らってゲームを進めることはできるが、どうしても元の物語を破壊する危険もあることから、時として本書の作者はそうした外伝や架空世界をゲームオーバーに誘導する傾向があったように思われる。そのためだろうか、ゲームブック版『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のIFの世界が原作以上の魅力を備えているようには感じられない。例えばマーティが実の母親と関係を持つシーンが描かれていたりするが(これはこれで衝撃的だが)、この行為がクリアとはかけ離れたものであることは誰にでも分かる。
 もっとも、原作を熟知する読者の言わば「原作への反逆」という意味合いから、「こうした場合はどうなるのだろう」という好奇心も手伝って、時に破天荒にも思えるこのような破滅的な道筋を敢えて選択するという楽しみ方もある。先の選択の例で言うと、母親と関係を持った場合にはラストで主人公マーティと母親の禁断の息子とも言うべき「兄」が登場するという衝撃的なシーンが待っている。こうした、原作に抗って遊びつつ、IFの世界を思う存分堪能して楽しむという自由度が『バック・トゥ・ザ・フューチャー』には豊富に用意されている。

 おそらく、ゲームブック版『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、IFが選べる選択肢を残しつつ、あくまでも小説のように読み進めて楽しむのを想定して作られているのだろう。その証拠に、冒頭にかなりのページ数を割いて物語が描写されていたり(パラグラフの中の文章は少なめだが)、映画からの白黒写真が掲載されていたりと、あくまでも原作のストーリーと楽しさを大事にしようという意図が見える。物語のIFを選ぶかどうかはあくまでも読者に委ねられており、これはこれで一つの作品として自立しているのであろうが、簡略化の極みともいうべきゲーム的なルールシステムをもっと複雑にして細かいデータを扱うような仕様があっても良かった気もする。数値的な属性があれば、例えばマーティがビフと対決するシーンなどでも能力の良し悪しで結果が変わるような楽しみ方ができただろう。
 一方で、簡素化されたルールは読者の敷居を低くするメリットもあり、映画の筋を楽しむためにはむしろ煩雑なルールや数値は弊害にもなる。その意味で、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』は、ストーリー性を前面に押し出し、無駄を極力排除した作品と言えるだろう。

 同じく原作を持つSAGBの作品として、クトゥルー神話を題材にした『暗黒教団の陰謀 輝くトラペゾヘドロン』も取り上げよう。「クトゥルー神話」とは、H・P・ラヴクラフトが創案した架空の神話体系で、宇宙を支配する邪神が地球にいつの日か再来し、世界を破滅に導くという名状しがたい恐怖を描いた作品群の一カテゴリーである。多数の作家がこの世界観を用いて作品を書き続け、後に神話体系としてまとめられ、現在でもTRPGをはじめとするゲームやコミック、小説などに影響を与え、カルト的な人気を誇っている。
 その中でも1936年発表の『インスマスを覆う影』(翻訳は東京創元社「ラヴクラフト全集」第一巻他)と、オーガスト・ダーレスが1944年に発表した『永劫の探求』(翻訳は「暗黒神話大系シリーズ クトゥルー」第二巻で青心社から出ている)を下敷きにしたこのゲームブックは、非常に解くのが難しいという特徴を持っている。
 クトゥルーの原作が「邪神の力が強大で、人間は非力なもの」という設定になっている以上、立ち向かうのに困難が横たわっているのは当然なのだが、「ギャンブル」と呼ばれるサイコロの目如何でクリア可能かが決定されてしまうのは、原作を知らないゲームブックファンには理不尽に映るだろう(この理不尽さは、「正しい選択をしている」のにサイコロの目という操作不能のランダム仕様によってバッドエンドを迎えてしまい、やり直しを強いられるストレスに起因する)。また、ジャクソンがファイティング・ファンタジー・シリーズ第十巻『地獄の館』などで用いて好評を博したデッドエンド・ブロック(どの選択肢を選んでも最後にはバッドエンドになる箇所)が豊穣に用意されており、危機また危機を回避して(時にサイコロの目を恣意的に操作して)進んでも、結局は暗黒教団の生贄になってしまう最期が待っているのは悲惨の一語に尽きる。
 
 ストーリーとしては原作(『永劫の探求』)の外伝的な位置づけになっており、原作を通読していなくても、あるいはクトゥルー神話のことを何も知らずともプレイすることができる。デュマレスト・ゲームブックと同じように、クトゥルー神話の小説を知らない読者のために、冒頭に数ページの説明を加えているのも類似している。本作は元ネタのダーレスの『永劫の探求』の影響を強く受けているため、クトゥルー神話の創始者ラヴクラフトよりも、派生したダーレスの世界観を色濃く反映しているようである。
 原作を知っている、あるいはクトゥルー神話の小説を既読の読者は、そこかしこに散りばめられている小道具ににやりとさせられるだろう。例えばあまりにも有名すぎる魔道書『ネクロノミコン』や、陰惨な雰囲気を醸し出すインスマスの町など、クトゥルーファンにはたまらない仕掛けが用意されている。

 戦闘システムとしては、ファイティング・ファンタジー・シリーズの方式を採用しているが、技術点が気力ポイントという名前に置き換えられている。この気力ポイントの増減が異様に激しく、また襲いかかってくる敵もかなり高い気力ポイントを持っている(だからこそ、その破滅的・絶望的な世界観を味わえるという長所もある)。
 ファイティング・ファンタジー・シリーズや「ドルアーガの塔」などでは、技術点や戦力ポイントが一上がったり下がったりするだけでもおおごとであった。なぜなら、サイコロ二個を振って出た目を気力ポイント(技術点や戦力ポイント)に加えて結果を判定するという戦闘システムにおいて、一点の増減が勝敗にダイレクトに直結するからである。ところが、主人公はただ敵から逃げたり、幻滅する気分を味わったりしただけでも気力ポイントを減らされる。だからこそ「気力」という名前がつけられているのであろうが、ポイントのぎりぎりの差における戦闘の緊迫感や(気力)ポイントの軽重を重視するゲーム性を考慮に入れるならば、より精密な、あるいは意味のある(説得力のある)能力値の増減を取り入れた方がよりゲーム的にも盛り上がったのではないだろうか。
 もっとも、このような大きな揺れ幅によって戦闘の趨勢が決まったり、イベントの成否が決定するという容赦のないスタンスも、絶望的な緊張感を維持する上では効果的に機能するという側面もある。
 
 また、ノーヒントでの選択場面が他のゲームブックに比べても多い。ゲームブックのクリアしやすさ(難易度)から見ると、何らかの行動を選択する必要に迫られた時に、今まで手に入れたヒントや情報が役に立つ方が難易度は公平になる(この「公平性」という観点は、特に鈴木直人の作品群で担保されていたように思われる)。『暗黒教団の陰謀』では、ノーヒントでの選択場面が他のゲームブックに比べても多く、ある行動の選択如何であっという間にデッドエンドになる(ないしはデッドエンド・ブロックに誘導される)ことがしばしばある。ホラー物のゲームブックにはありがちで、だからこそ恐怖心をあおられるのであろうが、こうまで理不尽な死があちこちに(無意味に)配置されていると、プレイヤーは先に進む気力が削がれる可能性がある。
 更に、経験ポイントや知性ポイントなどのオリジナルな能力値も導入されているのだが、特に狂気ポイントは、『地獄の館』の恐怖点のように、限界値である十に達すると発狂してゲームオーバーになってしまう。「非常手段」である程度狂気ポイントや気力ポイントを操作できる利点はあるが、それでも恐ろしい場面に遭遇するたびに容赦なく加えられていく狂気ポイントに泣かされたプレイヤーは多いだろう。

 この「狂気ポイントの厳しさ」は、先行するTRPG「クトゥルフの呼び声」(アメリカでは1981年、日本語翻訳版は1986年)のゲームシステムやプレイスタイルの影響を受けていたのだろう。このTRPGでは、プレイヤーである探索者はファンタジーなどの他のTRPGのキャラクターとは異なり英雄や超人的な力を持っているわけではなく、あくまで一般人である。よって、プレイヤーよりも遥かに高い能力を持つ怪物との戦闘などは避ける方が賢明で、かつ狂気的な事件の真相に近づけば近づくほど(ないしは恐怖の正体を知れば知るほど)狂気に陥るため、どこまで真相を知っていいのかというギリギリの線を、減っていく正気度を睨みつつプレイヤーが判断するという面白さがある。つまり、容易く発狂しかねないプレイヤーが、狂気と常に隣り合わせになりながら破滅していく真実に迫るという面白さを備えていたというわけだ。
 『暗黒教団の陰謀』は、こうしたTRPG的な「破滅すると分かっていても知りたいと希求する面白さ」を、狂気ポイントという言わば読者に忖度しない容赦のない難易度の設定によって取り込んだと言っていいだろう。

 総じて、ストーリーは及第点以上の出来だが、戦闘や条件分けのための属性的数値といったゲーム性という点では他のゲームブックに比べてやや厳しい判定基準を取り入れているようだ。例えば運任せのギャンブルによって冒険成功の可否が決まったり、とんでもなく高い数値(例えばヒュドラは「気力ポイント千 生命力ポイント万」である)を持つ敵と対峙しなければならないといった、時に不条理にも映るこうした辛口の数値判定によって、「絶望的な力を持つ敵との闘い」を反映させたかったようにも見える。これはおそらく、作者である大瀧啓裕がゲームブック作家というよりは翻訳者であることも影響しているのだろう。作者は、数値やバランスをよくよく熟考して本書を製作したようであるが、結局読者がそれを守ってプレイしないことが分かって落胆したと述べている(『翻訳家の蔵書』p. 187-188)。
 
 だが、ゲームブックのルール適用は敵の操作も含めてプレイヤーである読者に一任しているという構成上、一人遊び(ソリティア)的要素をふんだんに内包している。難易度が高く、不利な状況に陥った読者が馬鹿正直に(あるいは正当に)数値的条件を必ずしも厳守するわけではなく、その意味でゲームブックには時として読者の裁量に委ねられた大らかとも言うべき自由さがある。余談になるが、近年の(特に海外産の)コンピューターゲームには難易度設定に「ストーリーモード」という、戦闘で負けることのない、いわゆる「無敵モード」が実装されていることがある。これも要はゲームの「ストーリー」だけ、即ちゲームブックで言えば「ブックだけ」を楽しみたいという遊び方の一つだろう。
 
 ゲームバランスという点では敵が桁外れに強力であったり、あるいは主人公の各種属性ポイントの激しい増減などが見られるが、主人公が狂気に迫る様や濃密なストーリーが世界観に全く救いがないほど陰鬱な雰囲気を醸し出すことに成功していて、物語性という点ではかなり読ませる作品である。例えば主として活動するインスマスの町の住民たちは、読むだけで魚臭い吐息を感じられるほど不気味である。また、ダゴン秘密教団の悪魔宗教的な存在感は抜群で、いかにも狂気と恐怖の世界を行脚している気分に浸ることができる。
 
 だが、クリアしたパラグラフが僅か三行だけで、しかもエピローグもないという尻切れトンボの終わり方は、どうしても小説的な雰囲気の盛り上げに貢献しているとは言えない。ストーリーと雰囲気で勝負するのならば、最後の終わり方にも注意を払わなければいけないという小説的技法の大切さが、改めて浮き彫りになったようである。作者の述懐によると、「当初は三部作にするつもりで、残り二作のオーストラリア地底篇と狂気の山脈篇のプロットもできあがってはいた」ということもあり(『翻訳家の蔵書』p. 187)、物語を安直に大団円に締め括ることを躊躇わせた可能性もなくはない。しかしながら、物語として一応の完成を見るためには、そこまで大仰でなくとも一定の「締め」を意識してほしかった気もする。
 それでも、原作に忠実なまでの救いようのない世界観や体にまとわりつくような陰惨な雰囲気は見事に継承されていて、「恐怖を題材にしたゲームブック」としては完成を見ていると思われる。作者の大瀧啓裕は、当時もそして今もクトゥルー神話の翻訳の大家であり、クトゥルー神話のファンも納得する世界観を一切壊すことのない見事な文章表現は刮目に値する。実際、翻訳調の文体やクトゥルー神話の背景が色濃く滲み出た本作の濃密な表現は、まさにクトゥルー神話をはじめとする怪奇小説の翻訳家たる作者の面目躍如だろう。とにかくホラー物は「如何に読者を怖がらせるか」が重要な尺度になるが、『暗黒教団の陰謀』はその基準を見事にクリアしていると言っていい。

 ここまでは原作の雰囲気が色濃く出たゲームブックを解説したが、逆にオリジナリティが溢れる作品はどうだろうか。
 森山安雄の『展覧会の絵』はゲーム的な数字(能力値)を極力削った作品だが、完成度は極めて高く、SAGBファンの中でも人気が高い。2002年に創土社から復刻版が、そして2016年に幻想迷宮書店から電子書籍版が出されたことも、この作品の魅力が高いことを証明していよう。
 
 気がつくと、あなたは琴を片手に旅をする吟遊詩人となっていた。それ以前の記憶はなく、自分が誰かも思い出せない。吟遊詩人として町を放浪する途中、あなたのことを知っていそうな一人の商人が近づいてきて宝石を差し出してくる。あなたは自分が誰なのか、知ることができるだろうか……。
 剣も防具も持たず、記憶を失った吟遊詩人という蠱惑的な状況からスタートするこのゲームブックは、細かい数値や戦闘を含めたルールといったゲーム的要素を極限まで切り詰めて、どこまで優れたゲームブックが作れるのかという試みに挑戦している。そして、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』と同様か、あるいはそれ以上に、その極限なまでのシンプルさは高い効果を上げている。

 まず、主人公に属する数値(能力値)がない。その代わりに序盤で手に入る琴に和解の旋律、魔除けの旋律、戦いの旋律という三種類の弦が張ってあり、この旋律を消費することで敵と戦ったり、謎を解いたり、人とコミュニケーションを取ったりする。旋律が要求された時に適当な歌がなかった場合や、弦の色の歌(いわゆる琴の核になる旋律)がゼロになった場合はその場でゲームオーバーになる。数値らしい数値はこの程度であり、後はアイテムや宝石を記録すればいいという、読者に負担をかけない簡単なシステムになっている。そもそも戦いの時にはサイコロを振る必要すらない(他の場面ではサイコロを使用するが)。
 『ネバーランドのリンゴ』や『スーパー・ブラックオニキス』などでは、フラグ管理に必要な数値はキーNo.やチェックリストなどでプレイヤーが能動的にチェックしなければならなかった。また、ファイティング・ファンタジー・シリーズや、ルールがシンプルに見える『ティーンズ・パンタクル』ですらも、戦闘の際には延々とサイコロを振る手順が要求される。ところが、『展覧会の絵』にはそうした面倒なゲーム的作業は一切ない。だからと言ってランダム要素を取り入れたシステムや能力に依拠した戦闘などが欠けているわけではなく、琴(弦の歌)を如何に有効に使うかといった戦略が要求される。また、様々な場面で謎解きやパズルが用意されており、ルール面が簡素化されている一方で、こちら側の才覚が要求されるゲーム性は高いレベルで保持されている。
 この「作業が少ない読者に優しい仕組み」は、作者が後年述懐しているところによると「ゲームブックの最初にあるマニュアル(ルール説明)のようなものを廃止して、小説を読むような形で進めていくうちにルールが説明されていく」という、当時としては新しいものを作成したかった、とのことである(Web東京創元社マガジン2011年9月)。そうした方針もあって、迷路なども含めた無駄も極力排した、質の高さも兼ね備えたシンプルなゲームブックができたのだろう。

 ストーリーも、ムソルグスキーの『展覧会の絵』そのままに、十枚の絵の中を主人公は旅していく。途中で「キエフの門」の印のついた絵と、魔女バーバ・ヤーガの十二個の宝石を探すことになるのだが、仮に宝石が欠けていてもクリアは可能で、難易度は低い。これは、この作品が戦闘やアイテム集めを目的とせず、物語自体を読み進めることを目的としていたため、宝石が全部集まっていないと即ゲームオーバーになる、という安直な難易度設定を取り入れなかったからだと思われる。また、自身が鳥になって愛を語るシーンなども挿入されていて、ストーリー性や物語性、そして美しい文体に彩られた文学性は非常に高い。
 この先鋭的なルールとオリジナリティ溢れるストーリー展開により、『展覧会の絵』はSAGBの中でもかなり評判の高い作品となった。精密に数値を作り込んで、多種多様な属性値を設定し、好きな装備や好きな戦略、そして魔法を駆使したいと考えるコア層、即ちコンピューターRPGのようにゲームブックをプレイしたい読者にはやや物足りない内容かもしれない。それでも卓越した文章に加え、心が温まるエピソードがいくつもプレイヤーの前に提示され、物語的に飽きさせることがない。ラストの場面は圧巻で、感動的ですらある。
 『暗黒教団の陰謀』がそのオープニングにもかかわらず、あっさりと終わったのとは対照的であるが、これは読者に余韻を残しつつ考える余地も与えるか(『暗黒教団の陰謀』)、それともクライマックスを大団円に収めるか(『展覧会の絵』)という、作者の手法の違いであり、究極的には読者の好みに左右されるだろう。もっとも、『暗黒教団の陰謀』が三部作の第一部という位置づけであったために、その簡潔な幕切れは必然でもあったかもしれない。その一方で、『展覧会の絵』は一冊で物語として綺麗にまとまっている点は瞠目に値する。
 筆者の森山安雄は、後に平田真夫名義で文芸書も出版していることを鑑みると、ゲームブックをコンピュータゲームの代替ではなく、あくまで「ルールのある小説」、即ち「小説の変形」ないしは「小説の一ジャンル」と捉えていたように思われる。その意味で、『展覧会の絵』が文学的な素地が高いレベルで保持されているのも納得のいくところだろう。

 さて、もう一つのオリジナル・ゲームブックである滝日省三の『眠れる竜ラヴァンス』も取り上げよう。バルジニアを征服しようとたくらむ冥王モーレグは、暗黒竜アーリマンを召喚して仲間にした。モーレグに対抗するためには、もう一匹の善のドラゴンである眠れる竜ラヴァンスの力が必要だ。あなたはラヴァンスを蘇らせるために旅に出る、というストーリーが展開される。
 物語的には「悪い冥王モーレグを倒す→そのために善の竜ラヴァンスの力を借りる」という、勧善懲悪をベースにしている。このストーリー自体には原作がなく、ちょうど『展覧会の絵』が(同名のピアノ曲やオーケストラの存在はあるにしても)かなりオリジナリティが高かったのと同じく、『眠れる竜ラヴァンス』も全くのオリジナル作品である。

 ストーリー的には自立しているが、中身とゲーム性は、特に「ソーサリー」を強く意識しているように思われる。戦闘ルールはファイティング・ファンタジー・シリーズ(即ち「ソーサリー」)と同じくサイコロ二個に技量ポイントを加えた数値を比べ合うというものだし、十二種類の魔法が用意されているが、冒険が始まったら基本的に呪文の書を読んではいけないという制約も「ソーサリー」を受け継いでいるように見える。技量ポイントは筋力ポイントと敏捷ポイントを足した数値という設定になっていて、こちらは第11回で扱う予定の『紅蓮の騎士』の腕力ポイントと脚力ポイントを髣髴とさせる。更には普通の敵を倒すと経験値が一点増えるという仕様(他の状況でも増えることはあるが)は、「ドルアーガの塔」などのアイデアを採用している。

 ゲームの展開自体は、「無色透明の君」が単方向移動で諸々の問題を解決していくという手法を取っているが、それでも本作においてオリジナリティの高い箇所は随所に見られ、特に数々のパズルとイラストを用いた謎解きはヒントがあっても解くのにかなり苦労するだろう。これらの謎解きパズルは、解けないとクリアができないという致命的なものが多く、また非常に難解である。例えばある呪文を唱える際に必要な護符の選択や、暗黒の世界に閉じ込められた時の羊皮紙の解読などは、おそらくほとんどのプレイヤーがギブアップしたのではないだろうか。
 例えば前者の護符の選択は、たくさんの抽象的な図柄が描かれたいくつかの護符の中から共通項を見つけ出す必要があるのだが、その最終的な解は「内側に向かって右回りに巻く一本のらせん模様と一つの黒い三角形を有するという共通点を見つけ出すこと」という、非常に難解なものだった。また、後者の羊皮紙の解読では、あまりの難易度のせいか、作者が「あとがき」でヒントを用意しているぐらいである(そして、このヒントがあっても解けなかったプレイヤーは多かったに違いない)。
 
 本作は、魅力的な挿絵とともに強い個性を主張するキャラクターが満載で、スリリングな冒険が展開される。とかげ王のラスムーゼンに、敵の本拠地モンドバ寺院の醜悪さ(モンドバ寺院にはまさにクトゥルー的な悪辣さがある)、喧嘩をしている女魔法使いなどのNPCが効果的に散りばめられ、旅の楽しさに一役買っている。敵役も青銅巨人ザロスの恐ろしさやピンヘッドの雑魚さ加減などがうまく表現されていて、ストーリーの盛り上げ方という点では随一の出来だと言っていいだろう。
 『眠れる竜ラヴァンス』のイラストを担当した竜胆丈二は、表表紙と裏表紙のイラストも作成しており、一見すると海外調にも思える独特の作風は本作のストーリーとも極めてマッチしている。描かれたイラストも隠れキャラを登場させるような遊び心をふんだんに交えており、パズルの楽しさを提供するとともに、思わずくすりとさせられる微笑ましい工夫も忘れていない。例えば、モンドバ寺院のイラストにはウルトラマンの顔が隠れていたり、主人公のサポート役である魔術師オルセンが絶妙な隠れ方でひっそりと描かれていたりする。

 また、魔法もRPGのゲームによく用いられるファイアーボールのような攻撃魔法を忘れずに入れているかと思えば、僧侶魔法のような「実体を伴わない相手を退散させる」という効果的でありながらもかゆいところに手の届く魔法を用意しているなど、いかにもな天才魔術師の冒険が楽しめる。これらの魔法は、「かけた際の神秘性」と「戦略が要求されるゲーム性」という魅力的な要素二点を併せ持っており、秘密の使命を帯びた魔法使いの冒険を思う存分堪能できる。
 更に、クライマックスでは「剣士型のラスボス」青銅巨人ザロスと「魔法使い型のラスボス」精霊ヘイルダムのどちらかが襲い掛かってくるのだが、まともに戦っても勝ち目は薄い。クレバーに冒険を繰り広げて必要な情報やアイテムを収集し、それを絶妙のタイミングでここぞという場面で使用しなければならないという本格的かつ知略に満ち溢れた旅を楽しめるようになっている。

 前述した「ソーサリー」の影響が色濃い部分については、例えば、険しい崖を登る時に「(パラグラフ番号)○○か、××のどちらかを選ぶこと」というゲームテクニックを導入しているのだが、これは「ソーサリー」第四巻『王たちの冠』で剣が縦横に飛び出している暗黒の部屋を抜ける時のアイデアそのままである。このギミックは、まったく何のヒントも状況描写もない中、「自分が正しいと思った番号を勘で選び、誤った番号であれば体力ポイントが消耗していく」という仕様になっている。これは、プレイヤーがどれだけ進んでいるのか(あるいは後退しているのか)先が見えないだけに、徐々にキャラクターが消耗していく状況を突きつけることで、読者に緊張感を与える。この工夫は冒険の盛り上がりと緊迫感の高揚に絶大な効果を発揮したので、『眠れる竜ラヴァンス』でも積極的に採用したのだろう。
 また、一日の消耗点(食事をしていなかったり、十分な睡眠をとっていなかったりすると翌日の朝に体力ポイントを減らされる)も「ソーサリー」と似ている。
 こうした類似点を見ても、『眠れる竜ラヴァンス』は、SAGBで多くの読者に愛されて高い評価を得た「ソーサリー」へのリスペクトを込めたオマージュであることは疑いない。

 総括すると、パズル以外に飛び抜けたギミックはないものの、個性的なキャラクターやイラストを効果的に用いた謎解き、そして魔法使いとして秘密の旅を遂行していく緊張感溢れる過程など、冒険としての楽しさは高いレベルで保たれており、オリジナル・ゲームブックとしては成功だったと言えるだろう。
 もちろん、過去のゲームブックのアイデアをそのまま写し取ったことに議論の余地があるかもしれないが、例えば『パンタクル』の運だめしも、ジャクソンの「ソーサリー」と同一である。その割に『パンタクル』が剽窃だという批判を一切聞かないのは、それ以外のところで独自のアイデアと構成が優れていたためである。一部の似た(あるいは同じ)システムだけを取り上げて批判するのは、「木を見て森を見ず」であり、正しい評価だとは言えない。しかし、さすがに過去のゲームブックと似たところが多いと感じられたのか、ファンの間では賛否両論が沸き起こったが、それは仕方のないところだろう。

 『眠れる竜ラヴァンス』は三部作の一作目という位置づけだったが、結局第二部『ゼダンの審問』、第三部(題名不詳)は発表されないままに終わってしまった。『パンタクル2』も、結局続編が出ないままであることを考えると、ブームの凋落とはいえ残念である。もしブームが再燃するようであれば、『眠れる竜ラヴァンス』の続編もぜひ期待したいところだ。

◆書誌情報
 『バック・トゥ・ザ・フューチャー』
 安田均/TTG(著)
 東京創元社(1985/11/15)絶版

 『暗黒教団の陰謀 輝くトラペゾヘドロン』
 大瀧啓裕(著)
 東京創元社(1987/2/11)絶版
 
 『展覧会の絵』
  森山安雄(著)
 東京創元社(1987/10/9)絶版
 創土社(2002/12/1)絶版
 幻想迷宮ゲームブック(2016/3/11)
 
 『眠れる竜ラヴァンス』
  滝日省三(著)
 東京創元社(1988/6/23)絶版

■参考文献
 『天界の迷宮』
 佐藤大輔(著)
 徳間書店アニメージュ文庫(1987/12/31)絶版

 『巨神兵を倒せ!』
 下村家惠子(著)
 徳間書店アニメージュ文庫(1987/7/15)絶版

 『インスマスを覆う影』
 H・P・ラヴクラフト(著)大西尹明(訳)
 東京創元社(1974/12/13)他
 
 『永劫の探求』「暗黒神話大系シリーズ クトゥルー」第二巻
 オーガスト・ダーレス(著)大瀧啓裕(訳)
 青心社(1988/12/1)
  
 『地獄の館』
 スティーブ・ジャクソン(著)安田均(訳)
 社会思想社(1986/6/25)絶版
 SBクリエイティブ(2022/7/16)

 『翻訳家の蔵書』
 大瀧啓裕(著)
 東京創元社(2016/12/21)絶版
 東京創元社(Kindle版)(2016/12/21)

 Web東京創元社マガジン 2011年9月
 「平田真夫/森山安雄の挑戦——ゲームブック『展覧会の絵』から小説『水の中、光の底』へ」平田真夫/森山安雄×岡和田晃
 https://www.webmysteries.jp/archives/12245589.html
 https://www.webmysteries.jp/archives/12245590.html
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 https://www.webmysteries.jp/archives/12245592.html

 「ソーサリー」シリーズ
 スティーブ・ジャクソン(著)
 『魔法使いの丘』安藤由紀子(訳)東京創元社(1985/7/12)絶版
 『シャムタンティの丘を越えて』浅羽莢子(訳)創土社(2003/8/15)絶版
 『シャムタンティ丘陵』こあらだまり(訳)SBクリエイティブ(2024/2/16)
 
 『城砦都市カーレ』中川法江(訳)東京創元社(1985/8/10)絶版
 『魔の罠の都』浅羽莢子(訳)創土社(2003/12/31)絶版
 『罠の都カーレ』こあらだまり(訳)SBクリエイティブ(2024/2/16)
 
 『七匹の大蛇』成川裕子(訳)東京創元社(1985/9/10)絶版
 『七匹の大蛇』浅羽莢子(訳)創土社(2004/5/31)絶版
 『七匹の大蛇』柘植めぐみ(訳)SBクリエイティブ(2024/2/16)
 
 『王たちの冠』高田恵子(訳)東京創元社(1985/10/10)絶版
 『諸王の冠』浅羽莢子(訳)創土社(2005/3/31)絶版
 『王の冠』羽田紗久椰(訳)SBクリエイティブ(2024/2/16)


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