FT新聞新入編集部員の明日槇悠と申します。
今回は金曜日の投稿枠をいただいて、ゲームブックと文学性の関わりについて考察した記事を載せていただくことになりました。
比較検討の過程で、ゲームブックを離れたトピックも続きますが、どうかご容赦を。
ご意見・ご感想をいただけると励みになります!
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シはパラグラフを飛ぶ——ゲームブックと文学性
(明日槇 悠)
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ゲームブックの中には、文学性を志向したと考えられる作品も多くあります。
ゲームブックブームの成熟期に出版された森山安雄『展覧会の絵』、思緒雄二『送り雛は瑠璃色の』がよく知られた代表例になるでしょうか。
どちらも、ゲームとしてのシステムを明示しながら、物語としての格調高さをも両立させた稀少な作品です。この二作については、後ほどまた取り上げます。
文学とゲームブックの差異について考えるとまず思い浮かぶのが、ルールの明示問題です。
ウィトゲンシュタインの唱えた言語ゲームという概念があります。哲学に詳しいわけではないので、聞きかじりの知ったかぶりでしかないことを前置きして書きますが、これは、
"我々は日常言語というツールを用いてコミュニケーションなどのゲームをしているプレイヤーなのだが、実は誰もこのゲームの正しいルールを知らない。プレイヤー間の合意や習慣によって、なんとなくこんなルールという理解は共有されているが、厳密にはどこにも定義されていない。だから言葉の意味といったルールがいつの間にか変更されていることがよく起こる。観客がいれば、別の遊びになってるじゃん! と外から指摘できるのだが、プレイヤー自身の意識においては、ずっと同じゲームをしていたつもりで矛盾していない"
といったことを指して言うようです。
私は純文学作品にどことなくゲーム性を感じ取ることもありますが、それは言語ゲームにおけるゲーム観に通じたものという感じがいたします。
読書においては、どのように読むのも読者の自由、ということがよく言われます。批評や考察、二次創作といった活動をも含めて、「読者は言葉を解釈できる。そしてその内容は変化しうる」という働きの上で成り立っている遊びといえるでしょう。誰も表現の本当の意味を知っているわけではなく、今までの習慣や意見交換から「たぶんこう」と解釈していくわけですが、例えば批評家というプレイヤーが「作者も気がついてはいないけど実はこれはこういう意味だ」という新たな読みを提示します。それが多くの人にとって納得できる解釈だった場合、「たぶんこう」とみんなが思っている内容がいつの間にか変化しているということが起きます。それは文学作品に限らず、ある音楽バンドが長い期間マイナーだったけど転機があってメジャーになったとか、発表当初はチープなアニメでしかなかったけど後世では不朽の名作として伝わった、といった現象に見られます。あらゆる作品の評価は、口コミやレビューをはじめとする「言語」によってなされるからです。
自由な読みは面白く、無限の可能性が広がりますが、そこにはルールが明示されていません。アート性の強い作品であるほど「どんな意味?」と途方に暮れるような内容である傾向がありますね。そこからはいろんなものが見出だせるのだとしても、そのような読みに慣れていない読者は、どうすればいいのかと尻込みするばかりでしょう。
それに対して、ゲームブックは前書きなどでルールを明示するという特色があります。何らかの値があって、お金やアイテムなどの所持品を記入するよう求められ、ダイスといった外部ツールも使って、一貫した読み方を提示します。
こうしたルールに変化の余地はありません。変更されるとしても、それはテキストによって明示されるはずという約束がプレイヤーに共有されています。
代わりに変化するのは、何らかの値、お金やアイテム、ダイスの目といった概念ですが、読者はこの変化に極めて意識的であるため、「いつの間にか変更されている」わけではありません。何しろ忘れないようメモするようにわざわざ釘を差されまでするわけですから。
しかし読者自身がこうした操作を意識的にすることで、当事者感が生まれ、物語を主観的な体験として捉えやすくなる効果がゲームブックにはあります。同じ文章でも、指示に従ってループして読むことによって、捉え方が変わって感じられるというテクニックがありますよね。難解な文学であれば、「こことここはつながってるんじゃないか。あの文章をもう一度読んでみよう」と読者が個人的な意志で読まないとたどり着けないような味に、ゲームブックはたやすく導けるのです。この没入感は、明示されたゲームシステムの上で「こうしよう」と読者が限られた自由を行使して知恵を絞る気になるからこそでしょう。
完全に自由ではないが、道が敷かれていて遊び方を迷わないので、楽しさを多くの読者が共有できるのがルールの明示されているメリットといえます。
しかし、ルールの明示は、純然たる文学性の評価にはつながりにくい。それは言語ゲームの観点からいえば、言語のルールはそもそも分からない/変わっていくものだという原則と相反するからではないかと考えられます。ゲームブックとして良い作品でも、物語として良いかというと単純にはつながりにくいのも、確固たるルールがその前提にあるからではないでしょうか。
文学作品の中でも、ミステリにはルールが明示されていることが多く、その点ではゲームブックと近い性質があるといえます。ミステリは数多の天才作家たちの努力と情熱によって文学上の地位を向上させてきましたが、それでいて今なお、本格ミステリが純粋に文学的な性質を持つかというと、疑問符がつくことかとおもわれます。それは、ミステリが本格志向であればあるほど、厳密なルールが設定されるからでしょう。
一方で、純粋に文学的な作品と位置づけられていながら、私としてはゲームブックと呼びたいような偏愛の書もあります。単なる個人の感じ方ですが、三作ご紹介いたします。
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』。世界で最も面白い小説だと思います。これは読んで字のごとく言語ゲームの究極形といった内容で、ルールは明示されておらず、それなのに確かにルールはある。そうした意識が一単語どころか一文字レベルで張り巡らされていて、もはや誰にもついていけない遊びが展開されているところが面白い。ジョイスの作品はいずれもそのようなものですが、興味深い現象があります。
ホメリック・パラレルといって、『ユリシーズ』に出てくる登場人物などの事物は、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』と対応していて、遍歴の英雄オデュッセウスは一日中散歩をして帰る中年男のブルーム、貞淑な妻ペーネロペーは浮気妻のモリーといった風に神話と現代が重ねられており、章ごとに文体も変化するのですが、はじめこうした仕掛けは明かされておらず、『ユリシーズ』の評価はただとんでもないだけという感じで高くはなかった。こうした状況があってか、ジョイスは『オデュッセイア』との対応表の存在を明かしました。後になって、純粋にテキストだけ読んでもらうのが望ましいということもあって対応表は撤回されたのですが、明らかにホメリック・パラレルという考察材料が提供されてから、『ユリシーズ』の評価は上がったのです。解説を参照することで「なるほど、それなら名作だ」と納得するのに近いというか、ゲームブックがルールの明示をしていることでより多くの人が楽しみやすい仕組みになっているのと似たものを感じます。
この対応表は集英社文庫版(丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳)の各章ごとに載っています。単純に、訳がわからなくて笑えるならば、この作品への適性があるとおもいます。
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』。似もつかないようで、ゲームブック的ということに納得される文学愛好者の方もおられることでしょう。円環、無限、迷宮のモチーフを短編に閉じ込めることにこだわったボルヘスは、「無限に分岐する小説の書評という形の小説」といった後のゲームブックにつながるようなアイデアをいろんな形で披露しています。ボルヘスはミステリ愛好者でもあるので、「バベルの図書館はこのような構造である」というふうに厳密なルールを提示する形式のお話が多いのですが、それで文学性が高く感じられるのは、ボルヘスが多用するゼノンのパラドックス、無限の観念がルールに組み込まれていることによって、ありとあらゆる変化の可能性に思いを馳せることになるからではないでしょうか。
西脇順三郎『旅人かへらず』。私が知る日本の詩集で最も好きな一冊です。総パラグラフ数は一六八。たった一行で終わるパラグラフも多いです。この詩がどういうものかという解説(ルール)がはしがきで示されていますが、いわく、自分(西脇)の中には近代人や原始人がひそんでいるが、もう一人どちらとも割り切れない人間がいる。これを自分は「幻影の人」と呼び、永劫の旅人と考える。ふとした瞬間に来て、また去っていく無限を感じさせる思い出こそ「幻影の人」のしわざで、この詩は近代人でも原始人でも男でもない永劫の旅人として集めた生命の記録だということです。ここでもボルヘスと同じように無限性がルールに組み込まれています。私の主な読み方は、特に解釈しようともせず、ランダムにページを開けて、目に飛び込んできた文章にいいなあと感じるだけですが、はしがきに照らすと、各パラグラフは「幻影の人」の旅の記憶ともとれるので、旅人が「ふとした瞬間に来て、去っていく」体験の再現として、この読み方はゲーム的に機能しているように感じられます。
翻って、最初に挙げた森山安雄『展覧会の絵』、思緒雄二『送り雛は瑠璃色の』がそれぞれどのように文学的な味わいを醸成しているのか、考えてみましょう。
『展覧会の絵』の主人公は記憶喪失の吟遊詩人。楽士はサイコロという竪琴を手に、十二の宝石を集めながら十枚の絵の世界を旅することで記憶を取り戻していきます。この設定からして既に、ダイスを楽器になぞらえたり、宝石が時間をあらわしていたり、様々な象徴がちりばめられていて、詩的で幻想的です。記憶を取り戻さない限り、楽士は永遠に絵の世界をさまよい続けることになります。この無限性(ループ)は、ゲームにおいて物語性を出そうとする際に合理的であるので非常に多く採用されていて、今では特別なものではなくなっている感こそありますが、当時、ゲームと文学をつなぐ機能としては新鮮であったことと思われます。詩的、幻想的、無限性——これらは上に挙げた詩や小説が兼ね揃えた特徴でもあります。ゲームとしての固定化したシステムの中に、揺らぎを持つ豊富な読みをいかに誘うかが、ゲームブックにおける文学性の探求であったのではないかとおもいます。
『送り雛は瑠璃色の』は通常のジュブナイルのようなプロローグで幕を開け、次いで山口誓子のエピグラフ、次いで登場人物紹介、それからようやくルールが提示され、これがゲームブックであることが本文で明らかとなります。ゲームシステムの趣向の凝らし方に反して、ルールの紹介文はとても平易です。プレイヤーが管理するのは霊力点と時間の進行のみ。想像をかきたてられる地図を参照して、プレイヤーは自由に調査を進めることになります。こうしたはしばしから、「固定化したルールをなるべく奥に隠し、物語性を前面に出す」という著者の工夫がうかがえます。ルールを強調すればするほど流動的な物語が犠牲になるということに著者は自覚的だったのでしょう。和歌や民俗学といったモチーフを取り入れるのみならず、フレーバーテキストといって適当かどうか迷うほどの情報の洪水を展開することによっても、ルールに従う感覚は覆い隠されています。
書籍に併録されている『夢草枕、歌枕』は、更にルールを簡略化し、その目的を夢占いとしている点で大変ラディカルな試みをしているように見えます。花と鳥と和歌をモチーフに、プレイヤーはさながらタロットを繰るように二夜の夢を選択し、それぞれを一つの物語とするように間の話を考え、そこから、現在の自分の状況なりを当てはめて、本当の夢占いのようにそれぞれを解釈するよう求められます。ルールを明示しつつ、プレイヤーの解釈可能性を最大化する試みは、ゲームブックの体裁を保ちながら限界まで詩に近づけようとする挑戦にも見えます。
ちなみに、『夢草枕、歌枕』と構造のよく似た小説に、イタロ・カルヴィーノ『宿命の交わる城』があります。
著者の思緒雄二氏は、創土社新版に寄せたあとがきにて、ゲームブックの物語世界の魅力について「一つの大まかなテーマ、世界観のもとにまとめられた散文詩集、短編集」と言い表し、「ゲームブックの構造的不自由が(その不自由ゆえ必然として)生み出す」小さな意味たちの拡散していく宇宙であると語っています。氏はゲームブックが固定したルールゆえに不自由であることを自覚した上で、そこに独自のポエジーを見ていたことがわかります。このことは、鮎川信夫、田村隆一、塚本邦雄といった詩人たちがミステリというジャンル小説に興味を持ち、翻訳したり執筆したりした現象を思わせるものがあります。天沢退二郎、谷川俊太郎、宮沢賢治らが、児童文学に力を注いだことについても同じことがいえるかもしれません。
どうやら、ゲームブックにおいて文学性をあらわすには、詩的、幻想的、無限性という特徴を備えることが専らのようです。
なぜゲームブックと("ゲームと"とも言えますが)ファンタジーは仲が良いのでしょうか?
思うに、ゲームブックは遊戯として占いと非常に近しい関係があるのです。
タロットカードはもともと、カード賭博用に刷られたものでした。酒飲みたちが金銭を賭けてトランプ遊びをしていたわけですが、あるとき、ゲームチェンジャーがたまたま回ってきた札の絵柄や数字を解釈することで、その人の運命を占えると思いついた。そのとき、酔客たちはもはや別のゲームが始まっているにも関わらず、それに気づくことなく一貫した遊びとして夢中になったことでしょう。それぞれのカードに与えられた意味は、プレイヤーたちが酔った頭で感じ取り、合意を得た解釈であり、いつの間にか変わっていくものであり、決して誰かが本当の意味を知っているわけではありません。今もなお。
ところが、いい加減なもののようで、占いは驚くほど的中してしまいます。たまたま出てきた事象に強く自分の心を反映させると、それは自分の心=世界を客観的に眺めるのと同じ状態になるため、自分でも意識していなかった深層心理に気づき、答えが見つかるのです。
なので、教本で良い意味とされているカードが出たからラッキー! とか、なんとか自分に都合のいい解釈を見つけ出すといった見方では占いはあまり当たりません。それは遊び方が下手なのです。
優れた文学作品は、自分の心の世界をどこまでも言葉に反映させようとします。言葉自体に固定した意味はないのですが、読者は自分の心に照らして解釈しようとします。その結果、作品世界と自分の心が響き合い、自分のことが分かったり、他者のことを推測できるようになったりするわけです。文学においては、具体的な話より、抽象的な詩が読者の心を反映させやすいツールです。
ゲームブックの文章は、数字の増減などといった抽象的な概念を想像力を駆使して活き活きと心に再生させるためのツールです。「五点のダメージ」といった抽象表現を肉体的な感覚に変換し生々しくイメージするためには、同じことを行う詩やファンタジーとの相性がよかったのです。もっとも、歴史的には話は逆で、ファンタジーの世界を体験したいという願いが先にあって、ゲームのシステムとつながっていったわけですが、システムもまたファンタジーを求めることはタロット占いの起源を見ても分かる通りです。
ゲームブックに特有の特定のパラグラフに飛ぶ手続きには、コンピューター的な処理では殆ど失われる身体感覚において、魔術儀式と通じる遊戯性があります。それはダイスを振ること、カードを繰ることと、厳密な機能は違えど通じています。命がつながるかどうかの運試し。
パラグラフごとに、意味・文脈が断ち切れているのは、通常の本では考えられないことでしょう。一まとまりの文を読むごとに、話が中途で終わるというのですから。思緒雄二氏も、前述のあとがきで「結びつくと言うよりは、ふと行き過ぎ交差する小さな物語、赤ん坊のような産まれたばかりの意味たち」と、ゲームブックの物語世界を並列的に捉えています。「交差する」「産まれたばかり」という表現は、パラグラフごとの単独性、断絶性を強調しているではありませんか。
通常の本では考えられないこと——本当にそうでしょうか? いえ、既に思緒氏は挙げられていました。同じテーマ・世界観でまとめられた詩集、短編集。一つの作品から別の作品、ないし一行の言葉から別の言葉へ目を移し、ページをめくるとき、別れたはずのイメージが、双子のように顔を出し「こんな意味もありえた」というふうに再演をするでしょう。
パラグラフの断続性にパラレルな差異を見出すことは、スワンプマンの思考実験を彷彿とさせます。例えばテレポーテーションをした瞬間、古い自分は跡形もなく消えて、違う場所に同じ情報でまとめられた存在が新たに現れる……。同一人物か、別人か? それは解釈次第で、本当の意味内容は誰にも分かりません。そもそも、毎日のように細胞を入れ替えている我々自身がそうした存在ではあります。
我々には「いつの間にか入れ替わる」という宿命があり、言語ゲームのルールは可変かつ不明な中で、これは絶対のルールです。パラグラフを飛ぶことは、そうした「詩的」イマジネーションを包含する「試行」であると結論づけたいのですが、これは「私的」な解釈です。
四つ目の「シ」があったほうがきれいにまとまるのですが、この解釈は皆様に任せることにいたしましょう。
◆(書誌情報/参照元)
森山安雄『展覧会の絵』(東京創元社・1987年/創土社・2002年/幻想迷宮書店・2016年)
思緒雄二『送り雛は瑠璃色の』(社会思想社・1990年/創土社・2003年/幻想迷宮書店・2020年)
ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』(丸谷才一・永川玲二・高松雄一訳、集英社文庫ヘリタージ・2003年)
ホルヘ・ルイス・ボルヘス『伝奇集』(鼓直訳、岩波文庫・1993年)
西脇順三郎『Ambarvalia/旅人かへらず』(講談社文芸文庫・1995年)
イタロ・カルヴィーノ『宿命の交わる城』(河島英昭訳、河出文庫・2004年)
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