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2025年8月22日金曜日

死はパラグラフに留まる——ゲームブックにおける「殺意」と死の意味について FT新聞 No.4594

みなさん、こんにちは。FT新聞新入編集部員の、くろやなぎと申します。
先日のFT新聞(FT新聞 No.4587、2025/08/15)に、明日槇悠氏の『シはパラグラフを飛ぶ——ゲームブックと文学性』が掲載されたところですが、そこからの連想というか、私なりの応答というか、そんな感じの記事を書かせていただきました。物騒なタイトルですみません。

ゲームブックにおける「シ」といえば、やっぱ「死」だよね、という言葉遊びのような思いつきがきっかけでしたが、意外と深いところで「ゲームブックと文学性」という明日槇氏のテーマにつながっているような気もしています。
お時間がありましたら、しばしお付き合いいただき、ご感想などいただければ幸いです。

なお、この記事の中では、以下のゲームブックの全体的な構造や具体的な場面(主人公の「死」を含む)について言及しています。

 ・スティーブ・ジャクソン『シャムタンティ丘陵』(こあらだまり訳、SBクリエイティブ、2024年)※『ファイティング・ファンタジー・コレクション40周年記念〜スティーブ・ジャクソン編〜「サラモニスの秘密」』所収
 ・思緒雄二『送り雛は瑠璃色の』(幻想迷宮書店、2020年)※Kindle版
 ・清水龍之介『断頭台の迷宮』(FT書房、2014年)※Kindle版

いずれかを未読の方で、「余計な知識を入れずにまっさらな状態で作品を楽しみたい」という場合は、当該作品を読了したのち、気が向きましたら、改めてこの記事をお読みいただければと思います。

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死はパラグラフに留まる——ゲームブックにおける「殺意」と死の意味について

 (くろやなぎ)
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■ゲームブックにおける「物語」と「殺意」

まずは、初期のFT新聞に掲載された、ひとつの記事の引用から始めさせてください。
FT書房のゲームブック作家である清水龍之介氏は、ゲームブックにおける「死」について、以下のように語っています。

 僕が最初に感じたゲームブックの「物語」としての違和感は、「死ぬの!?」ということでした。
(中略)
 殺そう、殺そうとしてくる。できるだけ殺したい。なるはやで殺っといて、みたいな。玄関開けたら二分であの世。
 「本を閉じること」とか書いてある。えっ、みたいな。あっ、これ死んだんだ、みたいな。
 しばらくぼーっとしますよね。死んだかー、的な。
 本から「殺意」感じたの、初めてだなあ。みつを。みたいな。
 [清水龍之介『ギロチン系男子@ファンタジーこぼれ話』、FT新聞2013年版pp.147-8より]

ここで、清水氏が「物語」にわざわざ鍵カッコを付けていることにご注目ください。
清水氏のいう「違和感」は、「ゲーム」の終わりとしてのゲームオーバーに対するものというより、「物語」の突然の断絶に向けられたものであるように思います。
本を読み、その物語を追っていたはずが、途中でいきなり、読んでいた物語そのものから「殺意」を向けられ、「きみ」は死んで、「本を閉じること」と言われる。
この衝撃は、特に、選択肢の先にダイレクトに存在する「死」において、ことさら大きなものになるかもしれません。
つまり、戦闘で体力点が0になったとかのプロセスを挟まずに、そのパラグラフに飛んだらいきなり訪れる「死」。
「戦闘に勝ったら先に進めていたけど、負けてゲームオーバーになった」とかではなく、物語が本当にそこで途切れていて、完全に袋小路になっている「死」。
物語に入り込んでいた読者ほど、「しばらくぼーっと」するしかないような「死」。
そのような、ゲームブックにおける、ある種の「死」に対する読者の経験、肌感覚のようなものを、清水氏の文章はうまく掬い取っているように思います。

ひとつの例を挙げてみましょう。
旅に出た翌日。丘を下る曲がりくねった道を進むなか、きみはそろそろ保存食を食べておこうと、足を止めます。
開けた場所を見つけて、保存食を取り出し、パンをひとくち齧りました。
そして、木々のあいだから飛んできた、毒の塗られた吹き矢で死にます。おしまい。

…いやいや、待って待って、ちょっと待って、と言いたくなりませんか?

いま述べた「死」の場面は、ゲームブックの金字塔、〈ソーサリー〉シリーズの第1巻(SBクリエイティブ版での書名は『シャムタンティ丘陵』)における、ある一連の選択の結果を要約したものです。全4巻にわたるはずの、長い長い冒険が始まったばかりのときに起こりうるできごとです。清水氏のいう「なるはやで殺っといて」、という言葉のニュアンスがわかる気がするスピード感です(もっとも、この記事の後半で取り上げる『断頭台の迷宮』での、「最初のパラグラフで寝返りを打ったら次のパラグラフで死ぬ」というレベルのスピード感に比べると、随分とゆっくりだと言えるかもしれませんが)。
そもそも保存食を食べるという行為は、先々の冒険で体力が減ったりなくなったりしないための行為なわけで、まだまだ旅が続くことが大前提なんですよね。
で、食べようとした結果、死ぬ。しかも、食事という行為とは本質的に何の関係もない、いきなり飛んできた吹き矢の毒で。

ひとによっては、指をはさんでおいた直前のパラグラフにあわてて戻るかもしれません。そして、何食わぬ顔で、別のパラグラフを選び直して旅を続けるかもしれません。
それでも、「あ、死んだ」という衝撃や、本来はそこで物語が終わっていたという認識は、ひとつの経験として、ゲームブックの「殺意」とともに読者の中に刻み込まれるでしょう。
(さらに言えば、そもそも「きみ」は、直前のパラグラフに戻ってやり直すというだけでは、もはやどうしようない状況に陥っているかもしれないのですが…)

ここで強調しておきたいのは、このような「殺意」に満ちたゲームブックが、その結果として豊饒な「物語」を内包する作品になりうる、ということです。
危険に満ちた冒険の旅を表現するために、ひとりの主人公に経験させることができるのは、通常の物語なら「死にそうなぎりぎりの危険」あたりまでかもしれません。
しかしゲームブックなら、主人公を、しかも読者の分身である「きみ」を、本気の殺意で、ほんとうに殺してしまうことが許されるのです。
決して「殺せばよい」というものではありませんが、その場面が効果的に描かれるならば、その物語世界がどのように危険なのか、良くも悪くもどのような可能性に満ちたものなのかということに対する、殺された「きみ」である読者の理解や思い入れは深まることでしょう。
ゲームブックにおける「殺意」は、その「物語」がゲームブックという形式で展開されることに対して、ひとつの有力な意味を与えうるものなのです。

■『送り雛は瑠璃色の』における「殺意」のあり方

さて、先日の明日槇氏の記事では、文学性を志向したと思われる作品のひとつとして、思緒雄二氏のゲームブック『送り雛は瑠璃色の』(以下、『送り雛』と略します)が取り上げられていました。
ここで、『送り雛』における「殺意」のあり方について考えてみたいと思います。

『送り雛』の物語世界は、亡霊が実在し、呪術が実際に効果を発揮する世界であり、主人公の「瞬/シュン」である「君」は、ある因縁の当事者としてさまざまな経験をすることになります。
その経験には、「死」と隣り合わせの危機的な状況も含まれることでしょう。
しかし『送り雛』の読者には、その物語の中で、先ほど『シャムタンティ丘陵』の例で述べたような突然の死、物語が袋小路で断ち切られるような死を経験する機会はありません。
いやいや、『送り雛』にもゲームオーバーはある、読者全員が物語の「おしまい」にたどり着けるわけではないだろう、と言われるとその通りなのですが、少しばかり詳しく話させてください。

君は、物語の開始時に一定の「霊力点」を持っていて、それは「霊視」や「霊査」の能力(いわゆる「お告げ」のようなもの)を行使して情報を得たり、霊的な攻撃を受けたりするたびに減っていきます。
『送り雛』の物語を読み進めていくと、読者は特定のパラグラフの中に、何度も「霊力が0点以下なら、ただちに〜」という指示を目にします。そして、その指示に従ってパラグラフを飛んでいけば、そこにあるのは「君」の「死」、もっと強い表現をすれば「滅び」です(1度だけ救済措置を受けられる場合もありますが)。特に物語の終盤になると、霊力を強制的に減らされる機会は増え、君の死の危険も増していきます。
それでも、一撃ですべての霊力を持っていかれるような出来事は、『送り雛』の中では起こりません。君の死は、あくまでいくつもの場面の積み重ねの中で、段階的に霊力が減らされていった結果として起こります。
また、『送り雛』には「戦闘のルール」がありませんが、このことも、君の「死ににくさ」に影響しています。もし、君と敵との霊力を削りあうような戦闘のルールがあれば、いくら霊力が多く残っていても、1回の遭遇で霊力をすべて失い、死に至ることがあるかもしれません。

霊力の枯渇以外にも、『送り雛』にはもうひとつ、ゲームオーバーのパターンが存在します。これは、ある種の選択肢を選ぶことでたどりつく結末で、形式上は、突然の死(正確には「死」ではないですが、ある意味では死に準ずるような、絶対的な喪失が起こります)のように見えるかもしれません。
ただ、それらの選択肢には、すべて「全力での現実逃避」とでも言うべき明確な共通点があります。それまでの物語の流れを踏まえると、読者の目には、その選択肢は明らかに「浮いた」ものとして映るでしょう。そのため、物語の中核に積極的に進んでいこうとする読者が、それらの選択肢を選ぶ可能性は低いと言えます。
むしろ、それらの「死」へ繋がる選択肢は、この物語世界に疲れた「君」や読者に用意された、袋小路ではなく「非常口」のように、私には思えるのです。

『送り雛』では、読者が主体的に物語の中へ入り込み、物語の中核に迫ろうとする限り、「君」が袋小路のパラグラフで突然の死を迎えることはありません。ありうるのは、袋小路ではなく、道半ばでの(霊力の枯渇による、道の先が見えていた状態での)死か、物語世界から「降りる」ことを選んだ結果としての死(に準ずる結末)、この二通りの死だけです。これらの死を避ければ、読者は必ず、物語を読み続ける限り、「君」の選んだ「おしまい」の先へたどり着くはずです(なお、物語の中で1箇所だけ、霊力点が「0点」とは別の数値で分岐するパラグラフが存在します。これについては、霊力の不足によって物語世界から「降ろされる」、という特殊なケースとして位置付けられるかもしれません)。

『送り雛』の物語世界には、呪いや死の気配が渦巻いています。しかし、『送り雛』のゲームとしてのルールは、君の「死」への道を用意する一方で、突発的な「死」という経験からは、君を、あるいは読者を、守ろうとするかのように組み上げられているようにも感じられます。
たしかに、『送り雛』の終盤の展開は、ある種の「殺意」に満ちているとは言えるかもしれません。君が致命的に誤った行動を取ろうとすると、「強制霊査」が発動して、君の行動をキャンセルする代わりに、霊力が5点減らされます(なお、霊力点の初期値は50点です)。また、場合によっては、ひとつのパラグラフで8点、10点というレベルで霊力が減らされることもありえます。
ただ、たとえ霊力が0点になり、君が死を迎えるとしても、それは定められた手続きを踏んで、ひとつの(正確には、ほぼ同じ記述があるふたつの)パラグラフにたどり着いてからの話です。
これはあくまで比喩ですが、君は個別の川底に沈められるのではなく、必ず同じ海へ流れ着くのです。

『シャムタンティ丘陵』の殺意が、「きみ」の死をその場に打ち捨て、パラグラフの中に留めるような殺意であるのに対し、『送り雛』の殺意は、「君」の死を丁寧に回収し、然るべき場所へと送り届けていきます。
では、このような面倒見のよい殺意のあり方は、『送り雛』の物語にとって、どのような意味を持っているのでしょうか?

そのことを考える前に、ある意味では『送り雛』と対照的な構造を持つゲームブックにおける、「殺意」と「物語」のあり方を見てみたいと思います。

■『断頭台の迷宮』における「殺意」と「物語」

清水龍之介氏の『断頭台の迷宮』(以下、『断頭台』と略します)は、迷宮内で記憶を失った状態で目覚めた「あなた」が、迷宮からの脱出を試みるゲームブックです。
その迷宮の中では「ギロチンハンズ」と呼ばれる怪物が徘徊しており、あなたはおそらく何度か、そのギロチンの刃にかかって、あるいは他の致命的な罠にかかって、命を落とすことになるでしょう。
全部で100パラグラフ、というコンパクトなゲームブックながら、FT新聞に掲載されたぜろ氏のリプレイ(初回:FT新聞2013年版pp.1324-30、最終回:FT新聞2014年版pp.86-9、全20回)では、主人公は10回ほど死亡し、そのうち戦闘の敗北という形での死亡は2回のみ。あとはすべて、何らかの罠やギロチンによる即死となっています。

最初に引用した記事の中で、清水氏はギロチンについて以下のように語っています。

 それでも、僕はあえてギロチンを使う。
 ギロチンの性急さ、無慈悲さは、ゲームブックの終止符によく似合う……と感じているからです。
(中略)
 その妥協なき死への徹底は、ゲームブックのリアリズムに通じます。
(中略)
 そう、僕にとってギロチンは、単なる処刑法ではなく「死のシンボル」。リアルの象徴だった、というわけですね。
 [清水龍之介『ギロチン系男子@ファンタジーこぼれ話』、FT新聞2013年版p.146,pp.148-9より]

『断頭台』の殺意は、清水氏が言うとおり、性急かつ無慈悲に「あなた」を襲います。『送り雛』の殺意のように、「君」の能力値が一定以下になるまで待ってくれませんし、然るべきパラグラフへ送り届けてもくれません。
あなたには、技量ポイント・体力ポイント・運勢ポイントと、『送り雛』の「君」よりも多彩な能力値が与えられています。「君」が持たなかったアイテムや金貨を持つ権利も与えられています。しかし、どれほど技量ポイントが高くても、最大の体力ポイントが残されていても、素晴らしい魔法のアイテムを持っていても、ギロチンの刃は、そんなことはいっさいお構いなしに、あなたの首を落とします。

ギロチンハンズは、「右手がギロチン」という、「なぜそんな怪物をわざわざつくるのか」とツッコミを入れたくなるような、シュールで幻想的な存在です。
左手はギロチンではないので、ギロチン「ハンド」なのではと言いたくもなりますが、ひとところに留まらず、気付くとあなたのそばにいて、何度でもその首を落としてくるギロチンの手は、まさに複数形で呼ぶのが相応しいとも言えるでしょう。
そんなありえない存在、ファンタジーの物語の中でしか出会わないような怪物は、しかし不思議なことに、清水氏が意図したとおり、確かにある種の「リアリズム」を体現しているのです。
『送り雛』の物語の中で減っていく霊力や、その結果による死は、読者の中でリアルなものとして感じられるためには、想像力による何らかの変換作業を必要とするでしょう。「霊力が0点になる」とは一体どのようなことなのか、その先のパラグラフでの描写は、つまり何がどうなったということなのか、それを正確に説明するのは不可能ですし、読者によってイメージするものはまちまちでしょう。
それに比べて、ギロチンの刃があなたの身体にもたらす帰結は、あまりに明白で、あいまいな解釈の余地はありません。ギロチンハンズという幻想的な怪物は、その右手のギロチンだけが、妙なリアリティを持ってあなたの身体を、そしてあなたの物語を切断します。

『断頭台』における性急で無慈悲な死、頻繁に訪れるゲームオーバーは、ある側面から見れば、「ゲーム」としての『断頭台』の中核にある仕掛けであり、手強いパズルとして読者を楽しませるでしょう。
それと同時に、ギロチンハンズの右手の刃は、『断頭台』の物語にとっても、欠くことのできない象徴的な要素であると言えます。
『断頭台』の殺意は、ファンタジーの物語の中に、ある種のリアリティを与えるための装置なのです。

■ゲームブックにおける「死」の意味

では、『断頭台』の物語は、そのギロチンが象徴するとおり、ひたすら恐ろしく猟奇的なのでしょうか?
実は、まったくそんなことはありません。
ギロチンハンズという名前の中で、残虐性と諧謔性が奇妙に同居しているように、『断頭台』の物語の中では、恐怖と笑い、神秘性と世俗性、リアルとシュール、無感動な死と心温まるロマンスが交差しています。そして、ギロチンの刃をかいくぐったあなたは、思いもよらない結末へとたどり着くことでしょう。
その中に垣間見える、人間と、「人間のような、しかし人間ではない存在」との関係性というテーマは、『断頭台』とは遠く離れた作品のようにも思える、『送り雛』のテーマとも重なり合っているのです。

『送り雛』のあとがきの中で、思緒氏は以下のように述べています。

 ゲームブックという世界、物語の表し方に私が興味をもち続けているのは、そこに小説にも、漫画にも、映画にも、そしてコンピューターゲームにもない独特なものがあると感じているからです。あえて喩えるのなら一つの大まかなテーマ、世界観のもとにまとめられた散文詩集、短編集といった感じでしょうか。宮沢賢治研究の第一人者で詩人でもある天沢退二郎氏の『闇の中のオレンジ』という作品は、私のイメージするゲームブックの物語世界に、最も近いものの一つです。それは「結びつくと言うよりは、ふと行き過ぎ交差する小さな物語、赤ん坊のような産まれたばかりの意味たちの、大きく広がってとどまらない宇宙」、ゲームブックの構造的不自由が(その不自由ゆえ必然として)生み出す物語の世界です。
 [思緒雄二『送り雛は瑠璃色の』、幻想迷宮書店版pp.499-500より]

『送り雛』は、このような思想の中で生み出されたゲームブックであり、先日の記事で明日槇氏が述べたように、「詩的」「幻想的」「無限性」という特徴を備えているように見えます。
『送り雛』の殺意は、ギロチンの刃のような性急さや無慈悲さを持たず、読者がたどるループを少しでも長く、「おしまい」の先の無限の彼方まで引き延ばそうとします。そして、ついに「君」の霊力が尽きたときには、詩的で幻想的な、解釈の定まらない曖昧な光の中に「君」を連れていくでしょう。
『送り雛』の殺意のあり方は、その物語世界の文学的な性格を反映し、強化するような意味を持っているように思います。

一方、『断頭台』の物語世界は、散文的で、リアルで、断ち切られた有限な物語、あるいは物語とも言えないような、袋小路で終わるエピソードで溢れています。それを象徴しているのが、ギロチンハンズの右手に光る、殺意に満ちたギロチンの刃です。
しかしまた、断ち切られた物語を、何度も途中までたどり直し、物語の先へと少しずつ進んでいくにつれて、読者の中では、ギロチンハンズの右手が違った意味を帯びてくることでしょう。
いちど与えられた意味の再解釈、あるいは意味の「産まれ直し」と、断片化された物語たちの交差。『断頭台』の物語の中で読者が経験することは、ある意味では、思緒氏が述べたゲームブックの物語世界のあり方そのもののようにも思えます。
『断頭台』は、散文的であると同時に詩的であり、リアルであると同時に幻想的なゲームブックです。それらはひょっとすると、「文学的」かどうかにかかわらず、ゲームブックという形で生み出された物語が、多かれ少なかれ普遍的に備えている特性なのかもしれません。

では、無限性についてはどうでしょうか。『断頭台』の物語世界は、思緒氏が言うところの「大きく広がってとどまらない宇宙」、無限の意味の広がりを志向しているのでしょうか?
そうかもしれないし、そうではないかもしれません。それはある意味で、ゲームブックの物語を読み進め、読み直す、読者の営みに委ねられていると言えるでしょう。
ですが、『断頭台』の物語には、ひとつの大きな特徴があることも確かです。
FT新聞での『断頭台』のリプレイの中で、リプレイの執筆者ぜろ氏は、以下のように語っています。

 しかし——
 和気あいあいと3人で歩んでいくイリアンや作中の俺の分身ハルをよそに、プレイヤー俺の心にはわだかまりが残ります。
(中略)
 失った2人の仲間のことを思い出す。
(中略)
 生死をともにしてきたかけがえのない仲間たち。
 その仲間の命を無慈悲に奪ったのが、あの男のギロチンの刃。
 [ぜろ『リプレイ「断頭台の迷宮」@第17回』、FT新聞2013年版pp.2531-2より]

『断頭台』の物語が「和気あいあい」とした展開を見せる中、物語の中の「あなた」と読者(プレイヤー)のあいだには、どうやら何らかの分裂が生じているようです。
ぜろ氏の心に残る「わだかまり」。それは、「ギロチンの刃」から生まれたものに他なりません。
ギロチンの刃が生み出す散文的でリアルな死。それは、たとえ物語自身がそれを忘れたように振る舞うとしても、読者の心には刻み込まれて、簡単には離れてくれないかもしれません。それが「あなた」自身の死であっても、他のだれかの死であっても。

パラグラフのあいだを飛び、新たな意味を見つけ直す試行の奥底で、ギロチンが象徴する「死」は、それが起こったパラグラフの中に留まり続けます。

それは一方では、私たちの命や時間の有限性をあらわすものであり、ある種の枷としての意味を持つでしょう。
他方、それはまた、物語の印象を深め、断ち切られた物語を再演させ、新たな意味を生み出すための原動力にもなるでしょう。
あるいはそれは、物語世界の無限性に疲れた読者に対して、その世界から離れるための介錯のような役割を果たすこともあるかもしれません。

いずれにしても、ゲームブックにおける「死」は、それぞれの物語のあり方に応じた「殺意」とともに、
そのパラグラフに足を踏み入れる「きみ」や「君」や「あなた」たちから新たな意味を見出されるのを、物語の中で待っているのです。


■(参考)この記事で取り上げたゲームブックについて

Steve Jackson(スティーブ・ジャクソン)氏の"The Shamutanti Hills"は、原書が最初に刊行されたのが1983年で、日本では以下の3種類の翻訳が出版されています。

 『魔法使いの丘』(安藤由紀子訳、東京創元社、1985年)
 『シャムタンティの丘を越えて』(浅羽莢子訳、創土社、2003年)
 『シャムタンティ丘陵』(こあらだまり訳、SBクリエイティブ、2024年)

上記のうち、東京創元社(創元推理文庫)の『魔法使いの丘』は絶版ですが、「国立国会図書館デジタルコレクション」の「個人向けデジタル化資料送信サービス」の対象になっています。
利用者登録にはいささか手間と時間がかかりますし、紙の本のスキャンデータなので便利なリンク機能もありませんが、日本国内に在住する18歳以上の方であればだれでも、ご自身のパソコンやタブレット等で閲覧することが可能です。
[国立国会図書館:個人向けデジタル化資料送信サービスについて]https://www.ndl.go.jp/jp/use/digital_transmission/individuals_index.html

創土社の『シャムタンティの丘を越えて』は、通常の書店の店頭で見かける機会はほとんどないと思いますが、Amazonや大型書店のネットストア等で新品を購入できる可能性があります。
同じタイトルのTRPGシナリオ(国際通信社の〈d20ファイティングファンタジー〉シリーズ)もありますので、お間違えのないようご注意ください。

SBクリエイティブの『シャムタンティ丘陵』は、『ファイティング・ファンタジー・コレクション40周年記念〜スティーブ・ジャクソン編〜「サラモニスの秘密」』という、〈ソーサリー〉シリーズ全巻とジャクソン氏の新作がひとまとまりになったセットのうちの1冊という扱いでした。このセットは事前予約を前提とする完全受注生産品で、現時点では再販のアナウンスはありません。

思緒雄二氏の『送り雛は瑠璃色の』にも主に3つのバージョンが存在し、それぞれ社会思想社(1990年)、創土社(2003年)、幻想迷宮書店(2020年)から刊行されています。
このうち幻想迷宮書店版は、電子書籍としていつでも購入することが可能です(Kindle Unlimitedの対象にもなっています)。
https://gensoumeikyuu.com/gb08/

清水龍之介氏の『断頭台の迷宮』は、FT書房の「100パラグラフゲームブック」シリーズの第1弾として、2010年に刊行された作品です。
2013年にはアプリ化(「iGameBook」シリーズ、現在は配信終了)、2014年には電子書籍化されたほか、
2020年に刊行された「100パラグラフゲームブック集」の第2巻にも収録されています。
電子書籍で楽しみたい方は、Kindle版をご購入いただき(Kindle Unlimitedの対象にもなっています)、
紙媒体で他の作品もあわせて楽しみたい方は、「100パラグラフゲームブック集」の第2巻をお買い求めいただければと思います(在庫のあるうちに!)。

なお、『断頭台の迷宮』には1箇所パラグラフ番号の誤記があり、FT書房ホームページに正誤修正情報が掲載されています。これはKindle版、100パラグラフゲームブック集のいずれにも適用されますので、事前にご確認ください。
[Kindle版]https://www.amazon.co.jp/dp/B00P54ANLM
[100パラグラフゲームブック集(第2巻)]https://ftbooks.booth.pm/items/2483162
[正誤修正情報]https://ftbooks.xyz/seigoshusei/100para2seigo

また、FT新聞のバックナンバー(2013年〜2021年)については、電子書籍として1年単位での購入が可能です(Kindle Unlimitedの対象にもなっています)。
記事内での引用箇所を読んで興味を持たれた方は、こちらもぜひご覧ください。
[2013年(初年)のバックナンバー]https://www.amazon.co.jp/dp/B0B354RFVS


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