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2025年10月21日火曜日

『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.12 FT新聞 No.4654

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『スーパーアドベンチャーゲームがよくわかる本』 vol.12

 (田林洋一)
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 FT新聞の読者のあなた、こんにちは、田林洋一です。

 全13回を予定しております東京創元社から出版されたゲームブックの解説「SAGBがよくわかる本」、12回目の記事をお届けいたします。今回は東京創元社が主催した第二回ゲームブック・コンテスト入選作を中心に紹介します。

 本連載は「名作」と呼ばれるものを最初に集中的に扱っている関係上、連載の後半になるに従って厳しい批評が多くなりますこと、ご寛恕ください。作品そのものを全否定する意図は全くないことをご理解いただければと思います。「私はそうは思わない」という感想がございましたら、ぜひともお寄せいただければ嬉しく思います。
 
 なお、本連載はSAGBとして東京創元社版のみを検討・分析する記事とさせて頂いておりますので、後に別会社から出版された復刻版・改訂版などについては取り上げていないことを予めお断りいたします。
 
 毎回の私事ではありますが、アマゾンにてファンタジー小説『セイバーズ・クロニクル』とそのスピンオフのゲームブック『クレージュ・サーガ』を上梓しておりますので、そちらもご覧いただければ嬉しく思います。なお、『クレージュ・サーガ』はこの記事の連載開始後に品切れになりました。ご購入くださった方には、この場を借りてお礼申し上げます。
 
 『セイバーズ・クロニクル』https://x.gd/ScbC7
 『クレージュ・サーガ』https://x.gd/qfsa0

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12. ゲームブックの臨界点と斜陽 -第二回創元ゲームブック・コンテスト入選作品群

主な言及作品:『エクセア』(1989)『第七の魔法使い』(1992)
『ギャランス・ハート』(1992)
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 日本国内でのゲームブック人気は、東京創元社が第二回ゲームブック・コンテストを開いた1988年から1989年辺りから凋落の一途を辿り始める。第一回のゲームブック・コンテストの応募作品総数は百十九、第二回になるとほぼ半減の六十二、そして第三回のコンテストではなんと三十未満という、もはやコンテストとして成立しない数にまで激減した。
 そんな中でも、SAGBはシリーズとしてコンテスト入選作をいくつか発表しており、第二回コンテストから出版に結びついた作品は二つある。まずは佳作に入選した宮原弥寿子著『エクセア』を見よう。

 祖国であるエクセアは、ファンデム王国の襲撃により壊滅の危機に陥っていた。その刹那、エクセアは王子であるあなた一人を残して、何もかも消え去ってしまった。祖国エクセアはどこに? そんな折、ファンデムでの王位継承権を巡って、「聖なる森を探索して宝玉を持ち帰ったものに、王女を妻とする資格を与える」とのお触れが出された。ファンデムがエクセアの脅威でなくなれば、エクセアが復活するのではないかと夢見て、あなたはこの冒険に参加することになる。
 冒頭で人を惹きつけるプロローグに数々の難解な謎解き、そして巧みな文章力という点で『エクセア』はかなり良くできたゲームブックである。まずはルール面だが、武器や防具によって与えるダメージ(と受けるダメージ)が異なっており、リアルな戦闘が楽しめる。「ドルアーガの塔」やファイティング・ファンタジー・シリーズのように、固定ダメージ(二ポイント)というわけではないのだ。また、画期的なのが重さの概念で、鎖かたびらや両手剣などの強力な防具や武器は、効果が高い一方で重さが半端なく、しかも重さが一定値を越えると技術点が下がるというルールまで盛り込んである。逆に、アイテムをほとんど持っていないと敏捷性が高まるという点を考慮して、技術点が上がる仕組みになっている。リアリティを再現するという点からすると、かなり凝ったシステムと言えるだろう。

 考えてみれば、特にSAGBのゲームブックで重さの概念を取り入れたものは数少なかった。僅かに林友彦の「ウルフヘッドの冒険」シリーズで荷物の限界値を決めているが、食料一袋も錠剤一粒も同じ重さと換算され、単にアイテムの個数で制限を定めていた。この方式は、リアリティについては無視することで、プレイヤーに余計な負荷をかけないというゲーム的に優れた利点を持つ。
 SAGBのレーベルから出ているTRPGの「ドラゴン・ウォーリアーズ」も、「ウルフヘッドの冒険」と同じく「プレイヤーに余計な負荷をかけない重量計算システム(アイテムは種類に関係なく一つと数える)」を採用している。一方で、同じTRPGでも「ダンジョンズ&ドラゴンズ」や「トンネルズ&トロールズ(以下、T&T)」は、『エクセア』と同じく重量点という概念を取り入れて「拾得物の管理」をプレイヤーに行わせている。
 確かに、行く先々で見つけることができるアイテムなどを重さや体積に関係なく総取りできるシステムには疑問を感じるプレイヤーもいることだろう。例えばファイティング・ファンタジー・シリーズの一部や「ドルアーガの塔」では、最初に食料が十袋も与えられるが、これだけ重いものを持っていたら敏捷性に支障をきたすのではと考えるのはごく自然なことだ。

 コンピューターゲームのRPGも含めて、どちらかというとアイテムの重さやかさばり方という点は等閑視されることが多かった。重量制限を設けてしまうと、ゲームとしては煩雑すぎるし、クリアに必須のアイテムまで捨てなければならない事態が生じるからである(例外は「ドラゴンクエスト」などだろう)。この点を踏まえつつも、『エクセア』などでは、プレイヤーに負担をかけないように数値で重さを管理することでリアリティを出すことに成功している。
 習得したアイテムや武器について、従来のゲームブックやコンピューターゲーム「ファイナルファンタジー」などに代表される「重量も個数も問わない」方式は抽象的でありながらもゲームとしてのシンプルさを追求している。一方で、『エクセア』や「T&T」は「個数も含めて重量を計算する」という現実の物理法則をルールに落とし込んでいる点で対照的である。その中道を行くのが、「ドラゴンクエスト」や「ドラゴン・ウォーリアーズ」などの「個数は問うが重量は無関係」システムだろう。

 また、『エクセア』ではスタート時に原体力点、技術点、魔術点を自由に振り分けられるルールを採用しているが、先の重さの管理と合わせて、自由にプレイヤーキャラクターを創造できるというのも強みだろう。軽戦士を目指すのならば技術点に数値を多く振り分け、軽い革の鎧とナイフで戦うという戦法が取れるし、体力が自慢の重戦士を目指すのならば、原体力点などに重点を置いて、重い武器を装備するという戦略が立てられる(技術点は低くなってしまうが)。
 因みに、林友彦の「ウルフヘッド」シリーズも武器と防具に重量が設定されていたが、こちらは「装備重量の合計がパワー値を上回ると、攻撃の命中率や回避にペナルティを受ける」という能力値の不利なマイナス面にのみルールが適用されていて、「荷物が軽い時は動作が機敏になる」という点はルールに反映されていなかった。

 今までの(SAGBだけではない)ゲームブックはこの辺りがあまり自由が効かず、サイコロの目によって勝手に「どのタイプの戦士か」が決定されてしまうことが多い。例えば、「ドルアーガの塔」において防御重視タイプのギルガメスを作りたいと思っても、最初のサイコロの目で防御ポイントの数値が壊滅的に悪ければ、否応なしに攻撃型の主人公を作らねばならない(戦力ポイントの数値も悪かったら目も当てられないが)。例外は「ワルキューレの冒険」だが、場面や状況によっては魔法が使用できないことがあり、結果的に「魔法使いタイプの主人公」というイメージで冒険するにはそぐわないように思われる。
 それでも「ワルキューレの冒険」の魔法にも利点があり、最初に決める能力値や戦闘やサイコロの目が悪くても確実にダメージを与えられる「火の玉の術」や、減っていた体力ポイントを回復する「薬の術」は、ある意味で低能力値に対する救済措置的な側面を持っていた。「魔法で低い能力値を補う」という戦略は、ファイティング・ファンタジー・シリーズや初期のSAGBの戦闘では不可能とは言わないまでも困難であり、この魔法は戦略の幅を広げる「戦闘オプション」という性質を持つ。後述するが、『エクセア』も(限定的ではあるが)白兵戦に自信がなければ魔法戦を選択することができるという「救済措置」が用意されているように思われる。
 
 最初の能力値を決定する際のサイコロの目によって、難易度が劇的に変化するのは賛否両論があるだろう。「サイコロによるランダムな不公平」はない作品で言えば、例えば『眠れる竜ラヴァンス』は、最初の技量ポイントが十点と固定されていて、出立時の「運」は関係なく、作り手側も難易度も調整しやすい。また、「ワルキューレの冒険」では各巻のプロローグで能力値が改めて調整され、作成時の出目が低かった場合の救済策と難易度を揃える役目を果たしていた。
 TRPGでも初期にはキャラクターメイキングでランダム性を導入することが多かったが、時代が下るにつれて「自分のイメージしたキャラクターで遊びたい」という志向を持つプレイヤーの要請に応えるように「ポイント振り分け制」を導入するようになっていく。例えば「アドバンスト・ファイティング・ファンタジー(AFF)」も1989年の第1版では能力値はサイコロによるランダム決定に委ねられていたが、2011年の第2版(AFF2e)ではポイント振り分け制に移行している。
 
 『エクセア』は武器や初期設定だけでなく、魔法の使用や戦闘の立ち回り方といった点でも比較的自由度が高く、だいたいにおいて魔法戦か剣を交えての白兵戦かが選択できるようになっている(これは特に序盤の「聖なる森」の探索で顕著である)。惜しむらくは、一回魔法戦を選択すると、後は敵を倒すまで魔法を使い続けなければならない(つまり、白兵戦に移行できない)場面が多いことだろう。また、終盤では魔法を使う機会が激減するのも残念なところである。

 この作品は大雑把に言って序盤と終盤に分かれている。まずは双方向移動の「聖なる森」での探索、次にファンデムの王族となり、密かに侵攻準備を進めてきた西の大国ジェナンとの戦闘に挑んでからは単方向移動にシフトする。前半の「聖なる森」で出会う数々の挑戦者(NPC)は非常に魅力的で、個々の背景までもきちんと描写されているのは好感が持てる。
 例えば主人公のライバルたる傭兵ダーナ・ストゥティは、妹の結婚資金の調達のために「聖なる森」の戦闘コンテストに参加しているのだが、主人公は彼に資金援助を申し出るという選択をすることもできるし、問答無用とばかりに戦って殺してしまうこともできる。すると、後半の冒険でダーナの妹と遭遇した時の物語が(当然という気はするが)劇的に変わるのだ。あとがきで作者の宮原弥寿子が述べているように「倒す敵にも、親があって、恋人があって、赤い血が流れているような」NPCが満載である。こうした特徴的なNPCの存在によって、特に序盤は双方向移動でありながら物語に深みを出すことに成功している。
 
 前半の冒険でどのような行動を取ったかによって後半の展開が変わってくるのだが、ここでもプレイヤーは多くの洗練されたキャラクターと出会うことになり、ストーリー的にも盛り上がる。特に、後に行動を共にすることになる魔法使いパーシーと戦士コーラル、そして彼らの(そして主人公の)妻となる三人の王女との絡みなどは小説的にも読ませる魅力を備えている。
 例えば主人公を含めたこの三人が対ジェナン戦の軍議に参加していると、側近や参謀たちが主人公たちを小馬鹿にしたような態度を取ってくる。ここでうまく選択肢を選ぶと、王族の三女である剣士レイラが助け舟を出してくれ、事態が鎮静化し好転していくのだ。その他に、魔法に秀でた次女のリュウラが、鳥たちの力を借りて故郷エクセアの情報をもたらしてくれたり、予言を教えてくれりと、物語を進展させるのに不可欠なピースの役割を果たしている。
 
 惜しい点は、終盤になると観念論的な選択肢やエピソードが頻出し、お定まりの展開になることだろうか。描写力という点では優れたものを持ちながら、ストーリー自体の平凡さ、悪く言えば陳腐さが目立ってしまい、いまいち物語の世界に没頭できないのだ。例えば、ラスボスであり戦士コーラルの兄であるユージスとの戦闘では、主人公は否応なしに圧倒的な不利に追い込まれるのだが、その時に主人公が手にする魔剣・鸞凰飛翔剣(らんおうひしょうけん)を用いて状況を打開するシーンがある。ここで「剣に愛を込める」という選択肢を選ばないとゲームオーバーになるのだが、極悪人(とみなされている敵)が愛の力で改心するという物語構成はやはりありきたりで、王道過ぎるという気がしなくもない。
 この傾向は特に最後の戦闘からクライマックスで見られ、優等生的な選択肢とストーリーによって、ラストが大団円に持ち込まれる。エンディングで改心したユージスに、登場人物が「予言は成就した」「一生の宝となる仲間がいる」などという台詞を呟くのも、「ハッピーエンドの物語」であることを殊更に印象づけているように見える。『ドラゴンバスター』や「ドルアーガの塔」なども(結果だけを見れば)ある意味では凡庸な大団円であり、ゲームブックではそうした王道なものが多いが、この二作にはそれを補って余りある「描写の妙」があった。ところが『エクセア』は、あまりにも模範的すぎる文章に終始してしまっているように思われるのだ。
 
 ゲーム的な謎解きは非常に凝ったものが多く、しかも独りよがりなパズルではなくかなり論理的に作られているのは素晴らしいのだが、さすがに難易度が高いものが多い。あまりの難易度の高さゆえに、編集部が最後にヒントを与えているくらいである。例えば、クリアに必須のクイズでは十進法と八進法の区別の知識が必要となり、これは小学生のプレイヤーが解答するのは難しいだろう。
 また、プレイヤーは道中で女神アリアドネと遭遇するのだが、彼女は「ラドゥサとラドゥサを足すとアリアドネになる。その時一番小さいサリアはいくつか? ただし、ラドゥサ、アリアドネ、サリアはそれぞれ四桁、五桁、三桁の数字で、同じ文字には同じ数字が一つずつ入る」という、大人でも紙とペン、それに柔軟な発想が必要となる謎解きをしかけてくる(因みに、答えを間違えると原体力点が一点減るというペナルティがある)。
 このクイズも正解に辿り着くのは非常に困難である。しかし、こうした難解な謎解きを差し引いて考えても、ゲームとしての完成度は高い。これでクライマックスのストーリーにもっと惹きつける力があれば、歴代のゲームブックの中でも高い評価を獲得できただろう。

 このように、『エクセア』は総合的に見て及第点のゲームブックだが、同じく第二回ゲームブック・コンテスト佳作の新井一博・堀蔵人著『第七の魔法使い』はどうだろうか。
 プレイヤーは都市国家ヴィアドの最後の王位後継者。あなたの出生直後に暗黒の力を操る魔道女王ダウマヌスがヴィアドに攻め入り、占領される。あなたは魔法使いソージュの力を借りてその場を脱出し、ダウマヌス打倒のために力を蓄えていた。やがてあなたは練達の魔法使い《七賢人》の一人となって、女剣士トーナとともにダウマヌスを倒す旅に出る。

 本作は第一部と第二部に構成が分かれ、第一部は言わばイントロ、第二部が本題の魔法使いとしての活躍を描いている。第一部では敵の巣窟ヴィアドに入るまでの冒険譚を描いているのだが、主人公シリスティアは魔法が使えず、主に白兵戦で戦闘を処理する。方式は『ネバーランドのリンゴ』に似て、サイコロを振って七以上が出れば命中(若干の変動あり)という極めてシンプルなものである。一方、美しいトーナとともに敵の本拠地に入る第二部では、サイコロを使った戦闘は一切存在せず、主に選択肢の中に現れるいくつかの候補の中から魔法を使用して闘うことになる。
 特に第二部のストーリーは雰囲気が抜群で、最終ボスと主人公との関係や、後に主人公の妃となる美しき女剣士トーナや放浪絵師イッキックらとの絡みなどは秀逸の出来である。例えば、第一部で出会うトーナとは初対面こそぎこちないものの、第二部では心強いパートナーとして共に多くの戦いを経験する。そのうちにトーナと主人公は愛し合うことになるのだが、押しつけがましくない愛情物語が冒険の最中でも見ることができ、自然に感情移入できる物語展開は刮目に値する。

 また、それぞれの魔法の効果も高く、読者の想像の上を行く影響力とあわせて、白熱した魔法戦を体験できるだろう。具体的には、エネルギーの源である「陽の魔法」「月の魔法」「炎の魔法」「水の魔法」「循環の魔法」「大地の魔法」「暗黒の魔法」の七種類の魔法体系が設定されており、それぞれ複数の魔法が下位分類されているのだが、その一つ一つが個性的である。例えば「陽の魔法」はその名の通り太陽のエネルギーを使う魔法体系だが、ヴィザジンと呼ばれる「使うと大陸の半分が消失する」強力な魔法もあれば、ラストで重要な役割を果たす蘇生の呪文「アシス」もこれに含まれるなど、天才魔術師が使用するのにふさわしい魔法が用意されている。

 こうした魔法体系は、ゲーム作家である堀蔵人の影響が色濃く反映されているように思われる。『第七の魔法使い』は、新井一博がコンテストに応募した『ウォーロック・サーガ』を堀蔵人の力を借りて改作したものであり、堀蔵人は1987年に日本で二番目に発売された国産ファンタジーTRPG「フォーリナー」の世界設定や、RPG設定資料集『魔法王国シムルグント』の執筆を手がけている。
 「フォーリナー」では、キャラクターは「水、大洋、大気、太陽、火、火山、大地、月、平衡」という九種類のアライメント(元素)のいずれか一つを持つという設定になっており、『第七の魔法使い』の魔法体系に通じるものがある。堀蔵人はロード・ダンセイニやトールキンのような架空の世界を緻密に創造することを得意とするゲームデザイナーであり、そうした世界設定の妙が『第七の魔法使い』の作品背景を補強したのかもしれない。

 個人的には、第一部の戦闘システムはうまく機能しているが、肝心の第二部の魔法戦は成功しているとは思えない。使える魔法の選択肢が制限されているために、精鋭の魔術師という割にはいまいち活躍がぱっとしないのだ。例えば『パンタクル』では、パンタクルが使える箇所では十五種類の魔法全てが選択できて、それも威力の高いものから意外な効果を発揮するものもあり、「魔法」という神秘性と「天才魔法使いメスロン」という役割を思い切り演じることができた。選択肢で魔法を選ぶ形式の「ソーサリー」シリーズも、使える魔法は常に五種類と選択の幅が豊富だった。だが、『第七の魔法使い』では、多くて四つ、普通は三つ程度の選択肢しかなく、とても「魔法を使いこなす」という感覚に浸れないのである。
 また、魔法の威力に応じて消費する体力値が異なるのだが、その体力の減りが尋常ではない。となると、戦闘が一回終了するごとに体力回復の呪文(主にシリスとカナルと呼ばれる体力回復魔法)を頻繁に唱えなくてはならず、プレイヤーは手間がかかるだろう(「シリス」は月の魔法で、常に体力値を十五回復する力を持ち、「カナル」は陽の魔法で、サイコロを一個振って一以外が出ると体力値を三十回復することができる。カナルは威力が強い分、常に魔法が成功するとは限らないという欠点を持つ)。もっとも、この仕様によって「どちらかというとひ弱な魔法使い」(思ったよりも魔法を頻繁に使えない)というお約束のプレイを楽しむことができるようになっている。

 この「魔法の選択の少なさ」という点は、ジャクソンの『バルサスの要塞』の主要な欠点として安田均が論じているとおりだが(『ファイティング・ファンタジー・ゲームブックの楽しみ方』p. 49)、同様のことは『第七の魔法使い』にも言える。更に加えて、クリアするために体力の温存をするメリットを考えると、「そもそも魔法を唱えるか否か」の選択によって、より「魔法の選択肢」が減る。例えば「T&T」のマトリックス表(結果早見表)のようなものを使用するか、項目数を増やして(なんなら第一部を削って)もっと「縦横無尽に使える魔法使い」の自由さと迫力を前面に押し出した方が良かったのではないか。

 「七賢人」として覚醒する様子を描くのも大事だし、それもクライマックスを盛り上げるのに十分な役目を果たしているが、『第七の魔法使い』の肝はあくまでも魔人たちとの壮絶な魔術戦のはずだ。いわゆる「売り」を大事にしないで、その結果焦点が定まらない作品になってしまうのは、ゲームブックだけでなく全てのゲームや小説などの娯楽がたやすく嵌まってしまう陥穽である。

 ストーリー的には、ダウマヌスの配下である火・水・風・土の邪怪との決戦で手に汗握るスリルを楽しめ、また、常に付き従う女剣士トーナとの結びつきや父親との邂逅など、ドラマ的にも白熱する局面は多い。その一方で、『エクセア』と同じ弱点を抱えており、最後の女魔法使いダウマヌスとの戦いでは教科書的かつありきたりな展開になってしまう。実はラスボスであるダウマヌスはトーナの母親なのだが、トーナは母親とともに死の道を選ぶ。それに対して主人公が蘇生の呪文「アシス」をかけるかどうかという問いは(筋にはあまり影響はないが)模範解答としては「かける」一択だろう。こうした、いわゆるライトノベル的な展開を熱望する読者にとっては胸が熱くなるシーンだが、意地悪な見方をすれば、「優等生的な選択や筋立てが前提とされていて、実質的な選択肢になっていない」という評価もありうるのではないか。
 
 第二回ゲームブック・コンテストにおいて「応募作品は平凡にまとまったものが多い」(「アドベンチャラーズ・イン」13号)と評されたのは、こうした規定路線的なストーリー展開が多いためではないだろうか。こうした「王道の物語」が好みな人には良いが、特にコンテストで入選を果たすには、それなりの新奇性が要求される。型にはまった作品が多いというのは、それだけ今まで作られてきたSAGB作品の質が高かったことの証でもあろうが(特に「ソーサリー」や「ドルアーガの塔」の影響が大きかったのだろう)、コンテストの評でも「立派な出来の「ソーサリー」のコピー作品は要らない」と評者が投げ込みペーパーの「アドベンチャラーズ・イン」スペシャル1998年版で発言しているとおり、もっと突き抜けた個性を見せても良かったのではないか。その象徴的な作品が、『エクセア』と『第七の魔法使い』という気がしないでもない。

 ところで、『エクセア』のエンディングを見る限り、どうも続編が作れなさそうだと感じる読者は多いだろう。結果的にSAGBの最後の作品となった同じ作者である宮原弥寿子の『ギャランス・ハート』は、『エクセア』の続編とは言わないまでも、はるか後世の物語という体裁を取っており、世界観は共通しているが、『エクセア』とは直接の繋がりは希薄な作品である。
 主人公は女傭兵のアリス・カエン。ある日、僧侶のキーアの護衛というおいしい仕事にありついて有頂天になっていたが、キーアの行く先は、生きて戻ったものがいないという妖魔界だった……。

 いつもながら、宮原弥寿子は人を惹きつけるオープニングを作って、問答無用でプレイヤーを物語世界に巻き込む手腕に優れている(これは社会思想社から出た『フォボス内乱』というSFゲームブックにも表れている)。作者が『エクセア』で見せた個性的なキャラクターの描写は『ギャランス・ハート』でも健在である。主人公の女傭兵アリス・カエンの俗的ではあるが魅力的な特性に加え、司祭キーアの堅物さや一緒に旅をすることになる妖魔のヴァレリアに戦士フレディの調子の良さなど、NPCを際立たせる技術は卓越している。こうした様々な背景や特性を持つキャラクターが物語全般に効果的に配置されており、ストーリーを魅惑的にすることに成功していると言えるだろう。

 だが、こと『ギャランス・ハート』については、宮原弥寿子が得意とする圧倒的な描写力は影を潜め、ゲーム的な側面が色濃く前面に押し出されていて、逆に言えば物語性は大幅に犠牲にされている。複雑で、最初は知られていなかったキーアが旅立つ事情、純朴なキーアに徐々に感情を許していく主人公など、ストーリー的に優れたものを持ちながらも、文学的な書き込みが希薄なために、どうしても表面的な印象は拭えない。

 本作は、戦闘などにおける処理や能力値の増減という点ではむしろ割り切った考え方をしていて、アルファベットの略で能力値を表したり、能力値の変化や戦闘の勝利などにもあまり凝った言い回しを用いていない。例えば戦闘が起こる場面でも余計な描写は一切ない。ただ敵のデータ(TP(技術点)、HP(生命力)、AP(武器)、PP(防具)の四つ)が機械的かつアルファベットと数字だけの簡素な形で提示され、プレイヤーはサイコロを振って戦闘を行うだけなのだ。戦闘システムは『ネバーランドのリンゴ』と極めて近く、敵の分のサイコロを振る必要はない。自分の分のサイコロだけを振って、それに自分の技術点(TP)を加えた値が敵の技術点(TP)以上ならば攻撃は成功するという、プレイヤーの負担にならない方法を採用している。
 戦闘ルールに見られるように、『ギャランス・ハート』はテクニカルかつコンピューターゲーム的な能力値の表示(とその処理)に重点を置いており、その影響もあってか相対的にストーリー性と場面描写にはあまり注意を払っておらず、結果として凡庸な作品にとどまっている。宮原弥寿子のストーリーテリングを生かすための「文学性」や何らかの凝った描写が、この作品ではごく一部のパラグラフ(特にキーアが生贄になるアナザー・エンディングの文章は秀逸である)を除くとあまり現れず、せっかくのストーリーの良さを生かしきれていないのである。『エクセア』は物語的に定番の展開を迎えたが、『ギャランス・ハート』もどうしても場面ごとの盛り上がりがなく単調で、突き抜けた個性が出せていない。ゲームブックはゲームであると同時にブックで「読ませる」ものでなければならないということが、この作品では一部欠けているのである。

 もちろん、肝心な場面では主人公(アリス・カエン)の気持ちなどが書かれているのだが、それ以外の冒険の途上で、ただ向かってくるだけの敵や無味乾燥な数値を出されてしまうと、それだけで作業をしている気になってしまう。せっかくのSAGB最後の作品だというのに、この出来ではあまりに幕引きとしては悲しい。特にゲーム的には、共に旅する仲間ができたり、キーアに感情値と呼ばれる特殊な属性があったりと、発展的な広がりを予感させる装置が用意されていながら、それが十分に活用されていない。『エクセア』や『フォボス内乱』で見せた卓越した筆さばきは影を潜め、『ギャランス・ハート』はあくまで数式や能力値の増減を機械的に設置し、余計な文章を極力省いた節が見受けられるが、それが優れたゲームブックを作る要件には足りないことは明らかだ。
 つまり、『ギャランス・ハート』は、ストーリーの軸(あらすじ)は魅力的だが、ゲーム的なデータを重視したために物語としての書き込み不足が目立っている、という特徴を持っているように見受けられるのである。

 既に述べたように、『ギャランス・ハート』以降、SAGBのレーベルとしてのゲームブックは出版されていない。これは、SAGBの質が下がったということにも一因があろうが、むしろゲームブックというジャンル自体の全般的な人気の低下と、読者層(購買層)の縮小などが主な要因だろう。また、いくつかの出版社が低レベルでほとんど作品としての体をなしていないゲームブックを量産したためとか、ちょうど同時期に飛躍的進歩を遂げたコンピューターゲームの進化に押されたという理由も少なからずあるだろう。
 前者の、ゲームブックの「粗製濫造」という意見は昔から唱えられているが、額面通りには受け取れない面もある。例えばファミコンのカセットゲームでは「粗製濫造」とも言える駄作も多く登場したが、それ以上に傑作を多く生み出したために廃れることはなかった。ファミコンという媒体はスーパーファミコンの登場と共にその地位を明け渡したが、それはスーパーファミコンがファミコンの性能面での上位互換であったためであって、ファミコンソフトが陳腐だったためではない。それと同様に、仮にゲームブックに「粗製濫造」の側面があったとしても、それを凌駕する傑作が数多く生まれ続けていれば生き残る道はあったようにも思われる。
 また、後者については、コンピューターゲームが爆発的に改良されていくにつれて、受動的に(人間が手間暇のかかる作業で数値をいじったり、戦闘の際にサイコロを振る手間などがない)一人で楽しめるゲーム媒体が増えたことが大きい。ゲームブックよりも(ゲーム面での処理という意味で)上位の遊び道具である媒体が、ゲーム専用機も含めて世の中に溢れ出たのは、日本のゲーム界では衝撃の出来事だった。どちらかというと低年齢層向けの双葉文庫から出た「ファミコン冒険ゲームブック」は、ファミコンを持っていなくても安価でファミコンの疑似体験ができるという利点があったが、実際にファミコンが人口に広く膾炙してしまえば、代替品は必要ないと考えるのはごく自然なことだろう。
 
 つまり、読書のようにこちらの「やる気」や「積極性」が必要で、かつ数値的処理も一人で行うソリティア的ゲームブックよりも、ファミコンをはじめとする一人用ゲームの方が、少なくとも大衆には受け入れられたというわけだ(しかし、筆者はコンピューターゲームにない魅力がゲームブックにあると今でも思っている)。そして、『ギャランス・ハート』は、悲観的な見方になるが、SAGBだけでなく、ゲームブックブームの終焉を告げる弔砲の役割を果たしたと言えるのではないだろうか。

 ※本連載におけるSAGBの「ゲームブック」の解説としては最終回になります。次回は番外編(補筆)として、SAGBのTRPGである「ドラゴン・ウォーリアーズ」を取り上げます。

◆書誌情報
 『エクセア』
 宮原弥寿子(著)
 東京創元社(1989/10/13)絶版

 『第七の魔法使い』
 新井一博・堀蔵人(著)
 東京創元社(1992/6/26)絶版

 『ギャランス・ハート』
 宮原弥寿子(著)
 東京創元社(1992/8/28)絶版

■参考文献
 『ダンジョンズ&ドラゴンズ セット1:ベーシックルールセット』
 Gary Gygax and David Arneson
 株式会社新和(1985/6)

 『トンネルズ&トロールズ ファンタジーRPGルールブック』
 K・S・アンドレ(著)安田均(監修)
 社会思想社(1987/12/30)絶版

 『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー』(上)
 S・ジャクソン/I・リビングストン(監修)安田均(訳)
 社会思想社(1990/12/30)絶版

 『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー』(下)
 S・ジャクソン/I・リビングストン(監修)安田均(訳)
 社会思想社(1991/2/28)絶版

 『アドバンスト・ファイティング・ファンタジー 第2版』
 グレアム・ボトリー、マーク・ガスコイン&ピート・タムリン(著)安田均他(訳)
 株式会社書苑新社(2018/4/30)
 新紀元社(2023/2/4)(改訂版)

 『ファイティング・ファンタジー ゲームブックの楽しみ方』
 安田均(著)
 社会思想社(1990/8/1)絶版
 
 『フォボス内乱』
 宮原弥寿子(著)
 社会思想社(1991/7/30)絶版

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