おはようございます。FT新聞編集部員のくろやなぎです。 本日は、『ゲームブックにおける死と物語』の第6回として、『魔人竜生誕』(著:松友健、2006/2016年、創土社/幻想迷宮書店)における死と物語についての考察をお届けします。 前回までの5回の記事で取り上げたゲームブックには、それぞれある程度の割合で、「死のパラグラフ」とでも言うべき、主人公が死んでゲームオーバーとなるパラグラフが含まれていました。 それらの作品では、主人公(読者)が特定の選択肢を選んでしまうと、何らかの罠や攻撃、アクシデントなどによって主人公は死亡し、物語はそこで唐突な終わりを迎えるようになっています(ただし、「輪廻」や「時の魔法」や「予知」といった特殊なギミックが発動しなければ、ですが)。 そうした「死のパラグラフ」は、ゲームとしてのバッドエンドであると同時に、物語としての奥行きや多層性の源泉でもありました。むしろ「死のパラグラフ」は、それぞれの作品のテーマや世界観を、ゲームブックという形式で表現する上での、本質的な要素のひとつだとも言えるかもしれません(前回取り上げた『ミラー・ドール』でも、記事の中では言及しなかったのですが、やはり印象的な「主人公の死」のパラグラフがいくつも存在します)。 一方、今回取り上げる『魔人竜生誕』には、そのような「死のパラグラフ」がほとんど見当たりません。 『魔人竜生誕』は、作者の言葉を借りれば「特撮番組や少年漫画でおなじみ、超人ヒーローバトルの世界をちょっと行き過ぎなぐらいに完全再現」した作品であり、敵を倒すか、それとも主人公が倒されるか…という状況が物語の中では何度も繰り返されます。にもかかわらず、主人公の敗北や死がしっかりと描写されるパラグラフは、全部で600パラグラフを超える作品のスケールを考えれば、ごくわずかしか存在しない、と言ってよいくらいです。 今回の記事では、主人公の死に関する数少ない描写の内容や、そのような「描写の少なさ」自体を手がかりとして、私なりの視点から『魔人竜生誕』の物語を読み解いていきたいと思います。 記事の中では、物語の具体的な展開や結末、作品全体の構造などにも言及していますので、作品を未読の方はご注意ください。 実際に作品を読みたい・遊びたい、という方は下記のリンクからどうぞ。 [幻想迷宮書店ホームページ内、『魔人竜生誕』紹介ページ] https://gensoumeikyuu.com/gb10/ また、記事の作成にあたっては、作者である松友健氏のホームページも参考にしています。直接的に参照・引用した内容については、「作者の言葉を借りれば〜」のような形で、そうとわかるように記載しました。 [松友健ホームページ『駄人間生誕』内、『魔人竜生誕』コンテンツトップページ] https://matutomoken.web.fc2.com/page014.html なお、『魔人竜生誕』は、2006年に創土社から刊行された後、遊びやすくなるよう大幅に改良された上で、Kindle対応の電子書籍として2016年に幻想迷宮書店から改めて刊行されています。 創土社版と幻想迷宮書店版では、ルール説明の記述やフラグ管理の方法、パラグラフ構成等の一部が異なりますが、記事内での説明に際しては、できるだけ両方の版に当てはまる表現にした上で、バージョンによる差異がある点についてはそのことを明記しました。また、上記の松友健氏のホームページにおける『魔人竜生誕』のコンテンツは、サイト内の更新履歴によれば、創土社版の刊行直後に書かれたものが中心となっているようです。 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■ ゲームブックにおける死と物語 第6回:「ヒーロー物」としての『魔人竜生誕』における死と物語 (くろやなぎ) ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━■□■ ■『魔人竜生誕』における死とゲームオーバー まず、『魔人竜生誕』の物語の基本設定や、全体的な構造について整理させてください。 主人公である羅田 明(作品の地の文における「俺」。以下、「明」と呼びます)は、下町の零細工場を営む23歳の男性であり、肉体労働に従事しているので「体力ならそこそこある」という程度の、「特にどうという事のない」一般人でした。 ある日、仕事帰りの山道でトラックを走らせていた明は、山の上から突然現れた巨大な虫のような怪物に襲われ、わけもわからないうちに致命傷を負ってしまいます。 怪物は去り、後には瀕死の明が残されますが、そこに「誰か」の気配が近付き、明に「何か」を与えます。 その「誰か」は、自然の神のひとりであり、与えられた「何か」は、いちど殺された明を、超自然の戦士である「霊神将」として生まれ変わらせるための力でした(ここでの「神」とは、超越的・支配的な存在というより、もっと身近で人間的な、自然から生まれた精霊のような感じの「神」です)。 やがて目覚めた明は、「翼をたたんだ竜」のような姿の鎧を身にまとっており、そこにいた神(どのような神なのかは、そこまでの明の行動によって決定されます)から、自分が霊神将として生まれ変わったことや、先ほど自分を殺したのが「邪魔神」の眷属であったことなどを知らされます。 明は、異様な状況と知らない単語だらけの話に困惑しますが、結局は状況を受け入れ、先ほどの怪物を倒します。そして、自然と頭の中に浮かんだ「猛竜・ジーレギオン」という名を名乗り、自らの「主神」となった神をパートナーとして、敵である邪魔神の眷属たちと戦うことを決意するのでした。 以上が、この作品の導入部分のストーリーであり、「魔人竜」(すなわち、霊神将である「猛竜」ジーレギオンとしての主人公)の「生誕」に至るまでの経緯です。 その後、明は主神とともに、いったん元の人間の姿で日常生活に戻りますが、世間では邪魔神の眷属たちが引き起こす事件やトラブルが次々に起こりつつあり、明もそんな事件やトラブルにしばしば巻き込まれます。 そこでは、一話完結型のテレビ番組や連載漫画のように、 事件やトラブルの発生 → 探索行動 → 邪魔神の眷属との対決 → 一件落着 という定型的なサイクルが何回も繰り返され、このサイクルを通じて、明は霊神将としての能力を高めていきます。 やがて明は、敵の親玉である邪魔神そのものとの対決の時を迎えます。 そこで起きる出来事は、明がそれまでに積み重ねたさまざまフラグの組み合わせによって変化し、さいごに邪魔神を倒すことができれば、約20種類のマルチエンディングのいずれかに辿り着くことができます。 ざっくりまとめると、『魔人竜生誕』は、 導入(「魔人竜」の「生誕」) → 邪魔神の眷属たちとの戦いのサイクル(主人公の成長とフラグ立て) → 邪魔神との最終決戦(フラグの回収) → 終幕(マルチエンディング) という感じの構造になっていると言ってよいでしょう。 さて、物語の導入部分から、作品の大半を占める、邪魔神の眷属たちとの戦いのサイクルに入っていくとき、主人公の死やゲームオーバーに関する記述に、ある変化が起こります。 以下は、先ほど述べた物語の導入部分で、まだ普通の人間だった明が怪物に遭遇したときの、明の死に関する描写の一部です。 俺は……唐突に目の前が真っ赤になった!衝撃!地面が足元に無い!液体が器官に溢れかえり、呼吸が全然できない! 自分の胸部が背中から巨大な鉤爪で貫かれていることも、人間離れした怪力でそのまま持ち上げられている事も、そしてもう絶対に助からない事も、何一つとして俺には理解できない。投げ捨てられ、俺は地面にべちゃりと張り付く。俺は死ぬ。 ここでは地の文の語り手としての明、すなわち「俺」が、怪物になすすべなく殺される様子が鮮明に語られています(ただし、これでゲームオーバーになるわけではなく、物語はこのまま明の蘇生、すなわち「魔人竜」の「生誕」の場面へと続きます)。 また、明が霊神将として生まれ変わった直後、それまでの明(としての読者)の選択によっては、明は全てを忘れることにして「帰る」ことができますが、その先のパラグラフは以下のような記述で終わります。 ニュースは今まででは有り得ないほど多発する凶悪犯罪を連日報道しだした。しかも、犯人が不明の事件があまりにも多いという異常事態。これはいつまで続くのだろうか……。 だが、これはもはや俺にとって関わるべきでない事なのだ。 これは、作品中で唯一の、ゲームオーバー(邪魔神が倒されることのないバッドエンド)のためだけに用意された専用のパラグラフです。 電子書籍である幻想迷宮書店版では、通常の(邪魔神を倒したあとの)エンディングには「あとがき」へのリンクが付いていますが、このパラグラフにはそのようなリンクが存在しません。ここに辿り着いた読者は、何も遷移先も示されない文章の最後に、パラグラフの終わりを示す「▲」のマークだけがぽつりと添えられているのを見ることになります。 このように、作品の導入部分の、明が霊神将として生まれ変わる前やその直後の時点では、明の「死」の様子は文章としてはっきりと描写され、ゲームオーバーになるときは、そのための専用のパラグラフが用意されています。 一方、明が霊神将・ジーレギオンとして戦う覚悟を決め、自分を「殺した」怪物と再び対峙する段階になると、明の死やゲームオーバーに関する記述は、以下に引用するパラグラフのような形に変わります。 俺の攻撃が外れた隙をつき、ガヌァヴが鉤爪を叩きつけてきた。その爪がヌラヌラと光っているのが見える。直感的に、それが毒液の光沢だとわかった。俺はとっさに手甲を使ってブロックする。 俺に対する奴の攻撃力は11。防御に失敗すれば、俺は3点の生命力を失う。 結果、生命力か持久力のどちらかが0以下になっていれば俺はここで倒れる。防いだにしろ食らったにしろ、戦えるなら反撃するしかない。[以下、創土社版では「技の使用番号に10を足した項目へ進み、再度攻撃せよ。」という記述があり、幻想迷宮書店版では「技を選べ。」という記述とともにそれぞれの技へのリンクが示される。] このパラグラフでの記述と、先に引用したパラグラフでの描写との違いは明白でしょう。 ここでは、明の死やゲームオーバーは、ルールに則った戦闘処理の説明の一環として、パラグラフの途中に溶け込むように、事務的かつ汎用的な表現で記述されています。 「生命力か持久力のどちらかが0以下に」なった明が、どのように敵の鉤爪に貫かれ、どんな最期を迎えたか、このパラグラフの文章は何も描写しません。また、ゲームオーバーになったことが、パラグラフの最後の「遷移先の不在」によって示されるわけでもありません。「俺」による説明は、「死」の説明からシームレスな形で、改行すらされずに、そのまま「戦える」場合(生命力も持久力もまだ1以上残っているとき)の遷移先の説明へと移っていってしまいます。 ここで戦闘処理の結果から「俺」の死やゲームオーバーを判断し、その最期の様子を(心の中で)描き出す役割は、すべて読者の側に委ねられているのです。 以降、何度も繰り返される邪魔神の眷属たちとの戦いのサイクルの中では、明の死とゲームオーバーはすべて、後から引用したパラグラフと同様に、戦闘シーンの途中に「生命力か持久力が0以下になっていれば〜」と挟み込まれる形で提示されます。 最初の方で引用したような、明の死の描写やゲームオーバーのためのパラグラフは、ゲームブックとしてはとりたてて珍しいものではありませんが、この作品の中では、むしろ異質でイレギュラーな存在となっています。それらの描写やパラグラフは、『魔人竜生誕』における死の描写やゲームオーバーのパラグラフの「不在」や「稀少さ」を、かえって浮かび上がらせる役目を果たしている、と言ってもよいかもしれません。 ■『魔人竜生誕』における戦闘と物語 『魔人竜生誕』の大部分では、主人公の死やゲームオーバーに関する記述は、個別的な描写や専用のパラグラフを伴わず、戦闘シーンのパラグラフの中に汎用的な表現で埋め込まれています。 このことは、作品のどのような特性を反映し、作品においてどのような意味をもっているのでしょうか。 作者のホームページには、『魔人竜生誕』のコンセプトについて、「とにかく強い主人公が同じぐらい強い敵と一般人立ち入り禁止レベルの戦闘を延々と繰り返す話」と表現している箇所があります。 そして、この冗談めかした表現には、この作品における主人公の死やゲームオーバーの位置付けに関する、本質的な要素が含まれているように思います。 『魔人竜生誕』の作品世界において、霊神将となった明は「とにかく強い」存在であり、彼の前に立ちはだかる邪魔神の眷属たちも、「同じぐらい強い」存在です。彼らの戦いの前で、「一般人」はひたすら無力であり、そこはまさに「一般人立ち入り禁止」の領域に他なりません。 物語の開始時点で、読者はすでに戦闘ルールに関する説明を受けており、主人公の明には、最初に読者が決めた能力値が設定されています。しかし物語の導入部分で、怪物に襲われ、逃げたり隠れたり殴りかかったりする明には、戦闘ルールに沿った判定や処理も、能力値の増減も、いっさい求められることはありません。まだ「一般人」である明は、目の前の怪物とは能力の次元が全く異なるため、それらの戦闘ルールや能力値はそもそも無意味で、適用される余地がないのかもしれません。 作者曰く、『魔人竜生誕』は「バトル中心」のゲームブックであり、「強制的に何度もやらせる」(「延々と繰り返す」)ことになる戦闘システムこそが、「ヒーロー物を再現」するための作品の核に他なりません。作者の言葉を引用すると、この作品の戦闘システムは、 1:ヒーローが終始優勢である事はあまり無い。何度か技をはね返されたりする。 2:ヒーローは勢い重視の戦いを好む。さっきまで大ピンチでも、突破口を見つけた途端に敵を滅多打ちにして最終奥義に繋げたりする。 3:ヒーローが最強技をクライマックスで放てば敵は死ぬ。 という「ヒーロー物」の条件を満たすように設計されています(その具体的な設計内容は、作者のホームページで細やかに説明されています)。 ここで、「0以下になる」ことが敗北(死)を意味するふたつの能力値、「生命力」と「持久力」について簡単に説明すると、生命力はダメージを受けることで減少し、持久力は敵を攻撃することで消耗します。 また、こちらからの攻撃の命中率やダメージ量は、自分の使う技(最終的には10種類ほどになります)と敵との相性によって上下し、さらに敵に与えたダメージの合計によっても変化します(最初は通じなかった技が、敵が弱って隙を見せると有効になるという感じです)。 さらに、最終的な命中・回避の判定はサイコロの出目を使って行われ、そこではいわゆるクリティカルやファンブルのように、低確率で出現しうる、絶対的な成功・失敗の出目も設定されています。 つまり、敗北(死)の直接的原因としては、 ・敵からの反撃によるダメージが蓄積し、生命力が0以下になる ・技を使いすぎて消耗し、持久力が0以下になる という2種類のパターンが存在し、さらに、その状況に至る要因としては、 ・その敵に対する有効な(命中率や与えるダメージが高い)技を見つけられなかった ・敵の状態(有効になる技)が変化したのに、それにうまく対応できなかった ・有効な技には気付いていたが、運(サイコロの出目)が悪く、攻撃が当たらなかった など、いくつものパターンが考えられます。 戦闘のパラグラフの途中での、「生命力か持久力のどちらかが0以下になっていれば俺はここで倒れる。」といった記述は、単体として見れば、たしかに汎用的で事務的な説明でしかありません。 しかし、それ自体が個別の物語性をもちうる戦闘の展開の中で、「生命力か持久力のどちらかが0以下」になった時点で、読者はすでに十分な量と質の、主人公の死やゲームオーバーに至る物語を(文章化された描写とは別の形で)受け取っている、と言うことができるかもしれません。 『魔人竜生誕』において、設計されたルールに則った戦闘処理の繰り返しこそが、文章での描写と並ぶ、もうひとつの物語の存在形態なのだとしたら、主人公の死やゲームオーバーもまた、その中に織り込まれていても不思議ではありません。 ただし、作品の導入部分の主人公は、戦闘能力をもたない「一般人」であり、あるいは、戦う覚悟の決まらない、生まれたての霊神将です。彼はまだ、作品本来の死やゲームオーバーの場としての、戦闘シーンに移行することを許されません。 文章による主人公の死の描写や、選択肢によるゲームオーバーは、多くのゲームブックにとっては普通のことです。しかしそれらは、この作品においては、戦う「ヒーロー」になる以前の主人公の死やゲームオーバーのための、あくまで例外的な位置付けしか与えられていないようにも見えます。 先に述べたように、『魔人竜生誕』の大部分は、「事件やトラブルの発生 → 探索行動 → 邪魔神の眷属との対決 → 一件落着」という定型的なサイクルの繰り返しで構成されています。 このサイクルの中では、邪魔神の眷属との対決(すなわち戦闘シーン)が重要なことはもちろんですが、敵のもとに辿り着くまでの探索行動のパートにも、多くのパラグラフが使われています。そこでは、最終決戦の展開やエンディングの分岐に関わるさまざまなフラグ立てが行われるほか、敵の攻撃などによって、明の生命力が減少することもありえます。 しかし、そこでのダメージの量は、基本的には明が死なない程度の、「その後の戦闘で不利になる」という意味合いのものでしかありません。明の死やゲームオーバーは、あくまでそのサイクルの最後に控える邪魔神の眷属との、ルールに則った戦闘シーンの中でしか起こりえないのです。 もちろん、ゲームブックの構成として、探索行動の中でも、場合によっては死ぬような大ダメージを受ける判定や、致命的な罠やアクシデントにつながる選択肢などを設定することはできるでしょう。また、そうすることで、探索行動が読者にとってより緊張感のあるものになり、ゲームや物語としての奥行きも増すかもしれません。 しかしそれらは、この作品の「ヒーロー物」としての全体的なデザインにとっては、むしろ蛇足というべき要素になるようにも思われます。 霊神将としての使命に目覚め、邪魔神の眷属たちとの戦いを繰り返す明は、敵に辿り着く前の探索行動の途中で、必殺技を撃つこともなく死んだり逃げたりすることはできません。それは、この作品を貫く、ある種の型や「お約束」に反する出来事です。 明は必ず敵のもとに辿り着き、「ジーレギオン! 覚醒・装・着!」などと叫び、霊神将としての鎧をまとった姿に変身して、「フルンティングエッジ」や「デュランダルストライク」といった、カタカナ10文字前後の舌を噛みそうな名前の技をつぎつぎと繰り出します。攻撃を外すと敵からは重い反撃がやってきますし、巧妙な敵は、明の技をそのまま反射してくるかもしれません。敵の弱点を見つけるのに手間取ったり、運悪く攻撃を外し続けたりすれば、敗北、すなわち死を迎えることもありえます。しかしそれは、この作品世界によく似合う、ヒーローとしての死やゲームオーバーに他なりません。 読者はそこからひとつの戦いの物語を受け取って、戦術を練り直し、あるいは今度こそサイコロの出目が明に味方することを願って、新たな物語を辿り直すことになるでしょう。 ■主人公の「最後の奥義」と2度目の死 『魔人竜生誕』における主人公の死のあり方は、作品全体の構造において、どの段階の出来事なのかによって変化します。 先に述べたように、作品の冒頭での明の死は、「ヒーロー」になる以前の「一般人」としての死であり、神による蘇生から「魔人竜」の「生誕」へとつながるストーリーの一部として、文章によって鮮明に描写されます。 その後、作品の大部分における明の死は、ヒーローとして邪魔神の眷属たちと戦う中での敗北と死であり、それはすなわちゲームオーバーを意味します。その死はルールに則った戦闘処理の結果としてもたらされ、個別に文章として描写されることはありませんが、読者が経験した戦闘の経過の中で、「ヒーロー物」のフォーマットに沿いながら、即興的な物語性を与えられます。 そして、作品のクライマックスとなる邪魔神との最終決戦においては、明の死は、また別の形をとることがありえます。 そこに大きく関わってくるのが、霊神将ジーレギオンの「最後の奥義」である、「レーヴァンテインフレア」という技です。 邪魔神の眷属たちとの戦いのサイクルの中で、明はいくつもの新しい技を習得していきますが、このレーヴァンテインフレアだけは特別で、通常の戦闘では使用することができません。というのも、この技は「存在する事そのものへの絶対の否定、究極の滅びの力」であり、この技を使ってしまうと、戦闘の場そのものが「滅びの業火に埋め尽くされ」てしまうからです。 また、この技の習得のためには、「生神力」という経験値のようなポイントを一定以上獲得する必要があり、明のさまざまな行動や判定の結果次第では、最後まで習得できずに終わってしまう場合もあります。 ラスボスたる邪魔神の強さは圧倒的であり、通常の戦闘ルールのもとでは倒すことができないようになっています(もっとも、すべての面が「6」であるような特製のサイコロを使ったりすれば、天文学的な確率でしか起こり得ない形で邪魔神を倒し、特別なエンディングに辿り着けるかもしれません)。 そのため、明が邪魔神を倒すためには、何らかの特殊な出来事が起こる必要があり、それが何なのかはさまざまなフラグの組み合わせによって決定されます(必要なフラグが全く立っていない場合はゲームオーバーとなります)。 ここで、他のキャラクターからの助力などにより、最後の切り札としてのレーヴァンテインフレアを使用せずに明が勝利できれば、明は死なずに、生きたままでエンディングに辿り着くことができます。 一方、レーヴァンテインフレアを使用して邪魔神を倒した場合は、この技を使ったことによる当然の帰結として、明もまた「滅びの業火」に呑まれることとなります(これらの分岐はフラグの状態によって自動的に決定され、読者がその場で選択することはできません)。 ここでの明の「死」は、明の「生神力」(経験値)の高さに応じて、大きく分けてさらに2種類のエンディングへと分岐します。 ひとつは、邪魔神と明が相打ちとなったことを示唆する、明が不在のエンディング。 そしてもうひとつは、霊神将として究極までその力を高めた明が、「人間としての肉体」が燃え尽きた後に、こんどは不老不死の(戦って敗れれば滅びるが、定められた寿命をもたない)存在として生まれ変わり、未来において邪魔神が復活するたびに戦い続ける、というエンディングです。 (それぞれのパターンは、明の「主神」がどの神だったかによって、さらに3通りずつに分かれます。) 一方は、完全な死と消滅。もう一方は、「不死」の存在への「生まれ変わり」。これらは正反対の結末だとも言えますが、読者の視点からは、わかりやすい共通点を見て取ることができます。それは、これらのエンディングにおける地の文が、それまでのような明の一人称ではなく、外から見た三人称や、明以外のキャラクターの一人称のもとで記述されていることです。 明がレーヴァンテインフレアを使わず、生きたまま迎えるエンディングは10種類以上ありますが、そのほとんどのエンディングでは、それまでと同様に、明の一人称(俺)による語りの下で物語は幕を閉じます(1種類だけ、明ではない「俺」が語り手となる例外があります)。これに対して、明がレーヴァンテインフレアを使い、導入部分以来の2度目の「死」を迎えた場合は、明は物語のいちばん最後のパラグラフでだけ、読者に対して口を閉ざしてしまうのです。 相打ちの場合は、死んでしまった明はもちろん何も語りませんし、また、彼が語るべきことも、もう何も残されていないと言えるでしょう。明はヒーローとしてやるべきことをやり遂げて消滅し、あとには霊神将を失った主神と、ヒーローによって守られた世界が残され、物語は喪失感や寂寥感とともに静かに終わります。 そして、明が不老不死の存在として「生まれ変わった」場合、エンディングの中には明が登場するにもかかわらず、彼はあくまで外側から、彼のそばにいる「主神」の一人称のもとで、「俺」ではなく「明(さん)」として描写される対象になっています。そこではおそらく長い年月が過ぎ、邪魔神も何度か復活を遂げ、そのたびに明が邪魔神を倒してきたことが、彼の主神によって語られます。明はずっと「ヒーロー」としての役目を果たし続けているようですが、明はあまりに強くなっているため、もはやその戦いは、読者が見慣れた戦闘ルールのもとで展開されてきたような、「ヒーロー物」のお約束に沿ったバトルではなくなっているのでしょう。その意味では、たしかにこの(人間を完全に超越してしまった)明にも、もう「ヒーロー物の主人公」として読者に語るべきことは、何も残されていないようにも思われます。 作者によれば、明は「そもそも変身超人という時点で読者との一体化など無理」という割り切りのもとで書かれた、「ゲームブックとしてはかなり個性の強い主人公」です。そして『魔人竜生誕』の物語は、無色透明な主人公と一体化するのではなく、「主人公の行動・活動を見て楽しんでもらう」という方向性で構築されたものだとされています。 実際、地の文の語り手としての明は、ある意味では読者の視線を常に意識しながら、作品中での「ヒーロー」を(ときには突飛な言動も交えて)演じつつ、そこでの状況や心情を読者に対して語ります。さらには、戦闘やフラグなどのゲーム的な処理についても、同じ口調で読者に説明し、ときには指示を出してきます。 「俺」という一人称のもとでの、個性の強い明の語りは、読者との「一体化」には不向きだとしても、読者との「共演」には向いているように思います。ゲームブックという形式、ヒーロー物というジャンル、そうした型やルールやお約束の中で、明はそれを自ら演じながら、読者に「俺」の行動を選択させ、サイコロを振らせ、フラグを管理させ、物語をともにつくりあげるように働きかけます。 そして、物語の最初と最後において、そのような明の立ち位置を転換させる契機となるのが、明の「死」と「生まれ変わり」なのだと言えるかもしれません。 『魔人竜生誕』において、明の1度目の死、すなわち「一般人」としての死は、物語上の必然であり、明が「ヒーロー」として物語のメインステージに上がるための前提でもありました。作品の中核にある、「ヒーロー物の再現」として練り上げられた戦闘システムと、マルチエンディングにいたるフラグの積み重ねは、明の死(=魔人竜の生誕)を契機として本格的に動き出し、そのときから、ヒーローとしての明と、それを見て楽しみつつ、能動的に物語に関与する読者との共演は始まります。 これに対して、明の2度目の死、すなわち「ヒーロー」としての死は、物語上の必然というわけではありません。明がどこまで強くなったか、他のキャラクターとどのような関係性を築いてきたか、それらの要素の組み合わせによっては、作品はそのまま「俺」によって、それまでの物語と地続きのような形で語り終えられることになります。 しかし、明が「最後の奥義」であるレーヴァンテインフレアを使う展開になった場合は、明は2度目の死を迎え、辿り着く最後のパラグラフでは、もはや読者に自ら語りかけたり、何かを説明したりすることはありません。その死(あるいは、さらなる「生まれ変わり」の結果としての「不死」)と沈黙は、「俺」と読者との共演によってゲームブックという形式で展開された「ヒーロー物」としての物語の終わりを、より強く印象づけるもののようにも思われます。 ■おわりに 『ゲームブックにおける死と物語』の第6回となる今回の記事では、「ヒーロー物」としての『魔人竜生誕』における死と物語について考察しました。 第1回から第4回までで取り上げた各作品には、サイコロを使った戦闘システムはありません。そこでの主人公の死は、主人公(読者)が特定の選択肢を選び、死のパラグラフに辿り着いた結果として生じるものでした。 それらの死は、主人公が遭遇する状況の困難さや、置かれた環境の厳しさ・苛酷さ、あるいは悪意や敵意の存在などを、物語の一部として読者に提示する役目を果たします。また、「輪廻」や「時の魔法」や「予知」といったギミックによる死のキャンセルや、複数の主人公たちの異なる視点からの描写などを通じて、それらの死は、それぞれの作品のテーマ・システム・パラグラフ構造とも有機的に関連しながら、物語を多層的・立体的に構成していきます。 一方、『魔人竜生誕』における主人公の死は、特定の選択肢の先に用意されているわけではありません。それは、邪魔神の眷属たちとの繰り返される戦いの中に、サイコロの出目という偶発的事象にも左右される形で、いつか発現するかもしれない可能性として潜在しています。 この作品では、物語の中に「死のパラグラフ」を散りばめるのではなく、工夫された戦闘システムの中に物語性のある「死の可能性」を織り込むことで、「ヒーロー物」としての作品世界に合致する形で、ゲームブックとしてのゲーム性と物語性をともに担保しているのだと言えるでしょう。 また、第5回で取り上げた『ミラー・ドール』(著:杉本=ヨハネ、2008年、FT書房)は、主人公が自らの血肉を与えた「ドール」とともに旅をし、その生と死に深く関わる物語でした。この作品における主人公とドールの運命には、それまでの旅の過程を反映する「献身点」が大きな影響を与えるとともに、ある程度の偶然性も関与します。 これに対して、『魔人竜生誕』は、いちど死んだ主人公が彼の「主神」によって霊神将としての力と命を与えられ、主神とともに敵と戦う物語です。 明は決してドールのように従順で無口なキャラクターではありませんが、それでも主神を大切に思い、彼なりに最善を尽くして戦い、最終決戦の展開次第では、彼か主神のいずれかが命を落とすことになります。そこでの彼らの運命は、やはりそれまでの邪魔神の眷属たちとの戦いの過程における、さまざまなフラグの積み重ねに左右されるでしょう。 いわゆる「剣と魔法」の世界を舞台として、硬質な二人称で綴られるファンタジー作品と、21世紀の日本を舞台として、個性の強い一人称で語られる「ヒーロー物」の作品。 前回の『ミラー・ドール』と今回の『魔人竜生誕』は、全体的な雰囲気やシステムにおいては互いに大きく異なる作品同士ですが、いずれもある意味では命を「与えた者」と「与えられた者」とのつながりを軸とした作品です。そして、『ミラー・ドール』では「与えた者」、『魔人竜生誕』では「与えられた者」を主人公とした上で、それぞれの視点から物語が進み、そのような「命」を介した関係性の積み重ねが、物語の最終局面で意味をもつことになります。 これらの作品からは、ゲームブックにおける死と物語に関する、あるひとつの抽象的な構造と、その具体的なバリエーションの幅広さを、ともに見て取ることができるようにも思います。 【書誌情報】 松友健『魔人竜生誕』(創土社、2006年) 松友健『魔人竜生誕』(幻想迷宮書店、2016年) 松友健『駄人間生誕』(ホームページ、2006年〜) https://matutomoken.web.fc2.com/ ●━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━● ■今日の新聞に対するお便りはコチラ! ぜひ、ご感想・お叱りなど一言ご意見ください。m(_ _)m ↓ https://ftbooks.xyz/ftshinbun/report 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